カテゴリ:上野と寛永寺
今日は予報通り、関東でもずいぶん雪が降ってます。
夕方見たら、ベランダにもかなり積もっていて重そうだったので ベランダの雪下ろし。 そのまま、家の前の雪かきに突入・・・ スコップで雪をかくより、雪だるまを作った方が 効率よく徐雪できるんじゃないかなんて考えました(やってないけど)。 さきほど、娘さんをおしっこに連れ出したところ、 娘さん(大)はいつもの通り公園へ行こうと果敢に攻めていきました。 公園と家の間の道路は私が夕方家側の半分だけ雪かきしたので 雪を踏みながら前に進んでいきましたが、手つかずのエリアに入ったとたん、 体がズブッと雪に埋もれたので「こりゃいかん」と思ったのか、 体の向きを変えて家の前の道路で済まそうとしたらしいのですが、 そこも手つかずエリアで体が雪に埋もれ、そのまま動かなくなったと思ったら その場でおしっこしてました いやあ~、手つかずのところを娘さん(大)が進もうと思ったら もう完全にラッセル状態になるもんな~(笑)。 風向きによっては相当積もってるところもあるので、 明日の雪かきが大変です。 オリンピックもいよいよ始まりましたが、 本ブログはソチそっちのけで通常営業です。 さっきは男子のスノボの決勝をやってましたが、 解説者の「次のキッカーが・・」とか「このキッカーで・・・」のセリフが 「吉川」としか聞こえなくて困ります。 全国の毛利ファンの皆様も、きっと同じ耳をお持ちのことでしょう さて、それでは藤堂高虎と黒田忠之以外のエリア3について紹介します。 ここはなかなかメジャーどころが揃ってますよ~。 【四品拾遺藝州太守源朝臣光晟】 戦国武将・浅野長政の孫。 戦国ファンの方には説明はいらないと思いますが、いちおう書きますと 長政は浅野長勝の娘と結婚し、のちに浅野家を継ぐ。 浅野長勝の養女・おねが秀吉に嫁いだことから秀吉の与力となり、 豊臣家のいわゆる五奉行にまで出世する。 が、関ヶ原では徳川方につき、紀伊和歌山藩を与えられる。 長政の跡は長男・幸長(よしなが)が継いだが、幸長に跡継ぎがいなかったため、 次男の長晟(ながあきら)が浅野家を継ぎ、 福島正則改易後の安芸へ転封となった。 その長晟の子が光晟(みつあきら)。 母は家康の三女・振姫。 つまり光晟は家康の外孫でもある。 振姫は浅野家に嫁ぐ前、蒲生秀行(氏郷の子)に嫁いでいたそうだが戻され、 浅野長晟と再婚した。 天正8年(1580)生まれの振姫は、元和3年(1616)に長晟に嫁ぎ、 翌年光晟を産んだ。 ウィキペディアには「高齢出産による無理がたたり、その16日後に死去した」とある。 享年37歳。 医療技術の進んだ現代でさえ、出産で命を落とす人がいるんだからね~。 振姫は蒲生家でも子を産んでいるので、経年初産婦(年取って初めての出産) ではなかったんだけど、やっぱり昔は大変だったんだね~。 そこいくと、子をボロボロ産んだまつ(前田利家の妻:2男9女の母)や 江(徳川秀忠の妻:2男5女の母。前夫との間にも2人の子あり)は どんだけ強靭だったんだと驚嘆せずにはいられませんが 浅野家の話が出たので、ちょっと過去の旅から浅野長晟ゆかりの神社を 紹介させていただきます。 これは戸津説法の記事で紹介した東南寺の後に寄った神社なのですが、 とても面白くてわたくしのお気に入りなので、是非とも皆様に紹介したいと 前々から思っていたものです。 では、2011年10月の旅より、近江は酒井神社の方から。(場所はこちら) 写真が多いので解説文の掲載は省略しますが、 社伝による創建は弘仁元年(810)。 【元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き打ちにより神社は罹災しましたが、 天正16年(1588)に再建。元和6年(1620)に広島藩主浅野長晟によって 現在の社地に建立されました】とある。 その社殿がこちら↓。 小ぶりだけど、桧皮だしなかなか風格がある。 こちらの屋根に乗るのは、浅野家の家紋、「丸に違い鷹の羽」↓。 割に最近補修されたものらしい手水舎にも、浅野家家紋↓。 酒井神社のお向かいにあるのが、両社神社↓。 ↑上の写真は神楽殿の天井で、格子状に大きく組まれた格天井(ごうてんじょう)の合間に さらに細かく格子が組まれたこういうタイプのものを、小組格天井(こぐみごうてんじょう) という。 で、こちらが本殿↓。 こちらも浅野長晟によるもので、棟札から酒井神社とともに建てられたことが わかっている。 細部に若干の相違があるのを除いてはお向かいの酒井神社と同じものだと解説がある。 浅野長政は賤ヶ岳後に大津を与えられており、初めは瀬田城に、 ついで坂本城、大津城へ入った。 長晟は坂本で生まれている。 私がここへ来たのは、酒井神社・両社神社は長晟の兄・幸長の産土神だったという 話を聞いたから。 特に浅野ファンって訳でもなかったんだけどね。 さて、ここまでは浅野長晟の建立ということ以外、 ぶっちゃけ何の変哲もないフツーの神社ですが、 神楽殿の脇にこんなものを見つけました↓。 写真じゃ全然わからないと思いますが、石造りのウサギが2匹、 オリの中に閉じ込められているのだ。 しかも、オリには御幣(ごへい)まで掛けられている。 なんなんだ、これは・・・ 本殿を見たあとで、入口付近にある手水舎へ行ってみた↓。 ここの瓦がなんと はうっ、うさぴょん!! ここから、ひたすら上を見てあちこち探しました。 そしたら、塀の上にも 屋根の上にも いるわいるわ、うさぴょんだらけ!! ウサギの由来を知りたかったけど、あいにく境内には誰もいず、 社務所のピンポンを押すのもちょっとためらわれたので この時はそのまま帰ってきましたが、後から酒井神社のホームページを見たら、 「両社神社のお使い」だとあった。 たぶん、両社神社ではウサギを神のお使いとしているって意味だろうけど、 三井寺の近くにはウサギを神紋とする神社があるものの、 ここまでウサギづくしの神社は他にはないんじゃないだろうか。 実に面白い神社で、大変に満足しました ・・・て、ごめんなさい、ほとんど寛永寺の記事じゃありませんが(笑)。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年07月29日 21時01分01秒
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