2016/02/05(金)23:54
叡山攻め(129) さかのぼり西教寺と真盛上人
え~、地味な記事にもお付き合いいただいた皆様、
ありがとうございました。
ここから叡山編を再開します。
何だかんだ言って、もう4月に入っちゃったよ。
シリーズが終わる頃には確実に半袖の季節だな
てか、このシリーズを書き始めたのが去年の7月8日だから、
1年以内に終わるのか?って気もしてきた・・・
<3日目>2014年1月27日(月) 晴れ
この日から世間では平日・・・
ふふふ、気分がいい。
しかし、そういう気分の良さとは裏腹にわたくしの体は重かった。
この日は宿替え。
通常、わたくしは旅の途中で宿を替えることはせず、
ひとつの所を拠点にしてそこからお目当てまで出勤する。
が、今回は諸事情があって中日に宿を山科から東山へ移すことにしていた。
そのことをすっかり忘れて前日は宿へ戻るのが遅くなったので、
そこからご飯作って洗濯して荷物まとめて・・・とあれこれやっていて、
必然的に寝るのが遅くなった。
ただでさえ3日目ともなれば疲れは出てくるのに、
今回は真冬の山歩きなども入っているので3日目の朝にはかなり疲労の色が濃かった。
仕方ない、自分が悪いんだ
ただ、救いは前日花摘堂であれだけ派手にすっ転んだのに
ほとんど後遺症がなかったこと。
奇蹟だ・・・
あの時わたくしは最澄たんのことしか頭になかったので
広野様、ありがとう
と最澄たんに感謝したもんだけど、後から考えればこの日は良源さんの本拠地へ行くのが
メインだったので、良源さんのご加護だったのかもしれない。
ともあれ、チェックアウトして荷物を預かってもらう。
宿の近くの山科の大丸にはわたくしの好きな洋菓子店のマールブランシュが入ってたので、
戻ってきて大丸で職場への土産を揃えてからここで発送してもらうつもりで、
箱のこととか色々聞いておいた。
して、すべての準備を整えてから電車に乗って叡山へ出勤。
前日の夜は少し雪が降ったんだっけかな。
でも朝にはすっかり晴れていた。
時間と体力の節約のために、駅からタクシーに乗る。
タクシーのおじちゃんは陽気な人で、話もはずんだ。
冬の叡山は公共交通機関も限られるので、横川を見たらタクシーを呼ぼうと思っていた。
そうおじちゃんに話すと、
「え~、おじさん迎えに行ってあげるよ!」
と軽快に言う。
前日、日吉神社までタクシーで行った時、電話番号をもらっていたけど
それはおじちゃんとは別の会社だった。
「あ~、○○なんてダメダメ!
おじさんが行ってあげるよ。
横川まで行けばいいのね?
電話くれればすぐ行くからさ~。
山歩きなんて大変だから、行きも飯室谷まで乗ってけば
いいのに・・・」
軽い冗談とはいえ、ライバル会社をダメと言ってしまうのは
ちょっと気に入らなかったけど、まあわたくしは別にどこの会社だっていいのだ。
飯室谷(いむろだに)というのは今回のルートの途中にある叡山の谷のひとつで、
そこまで車で行ってしまえば確かにラクには違いない。
しかし、今回はぜひとも自分の足で横川まで歩いてみたかった。
登山地図での歩行時間からすると、お昼すぎには横川を終えられると思っていたので
大体の時間をおじちゃんに告げて、下ろしてもらったのは西教寺(場所はこちら)。
ここから自分の足で横川まで歩く。
西教寺(さいきょうじ)へは一度来ているし、今回は時間がないので寄らなかった。
が、このお寺、初めて来た時に大変気に入ってオススメなので、
2011年の旅から西教寺境内をご紹介します。
2011年10月の旅は大津と京を歩いて、
この旅の旅日記で応仁の乱のことを書くつもりでしたが、
すでにまとめての報告は諦めております。
過去の記事でも東南寺や両社神社など切り崩してさかのぼりの記事として
部分的に紹介しておりまして、横川から下山したあともこの時の旅から
坂本付近の寺などを紹介する予定でおります。
これからご紹介する西教寺の写真はすべて2011年10月8日に撮影したものです。
まずはこちらが山門↓。
門前にも色々ありますが、先に境内にあった看板から西教寺の歴史を紹介しましょう。
【西教寺は、聖徳太子が、仏法の師である慧慈・慧聰のために開創された寺で、推古天皇の
26年(618)に大窪山の号をたまわり、天智天皇の8年(669)に西教寺の号を
下賜されたと伝えられている。
寺記には天台座主慈恵大師良源大僧正・恵心僧都が念佛道場とした。その後、比叡山で
修行された真盛上人が文明18年(1486)入寺し、不断念佛の根本道場として、
西教寺を再興された。
明治11年(1878)明治政府によって別派独立が公許、「天台宗真盛派」の本山と
なった。昭和16年(1941)に天台三派合同となったが、終戦とともに、昭和21年
(1946)に天台宗三派、延暦寺(山門)三井寺(寺門)西教寺(盛門)が分離、
天台宗真盛派を「天台真盛宗」と公称して独立、今日に至っている。(後略)】
(現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)
ということで、西塔の記事でも数回出てきた真盛(しんせい)さんのお寺で
しかも良源さんとも関わりのあるお寺ですが、
2011年当時は仏教に関心はなく、慈恵大師の存在は日光で知ってはいても
良源さんのことなんて全く知らなかったし、仏教関係を目当てに
西教寺へ来た訳ではありません。
戦国モード全開だった当時のわたくしが西教寺へ来た理由は、
【西教寺の総門(坂本城遺構)
高サ 6.4メートル
幅 5.6メートル
この総門は天正年間に坂本城主明智光秀が、坂本城門を移築したと伝えられている
城門で、昭和59年に老朽化が進み修理が加えられたが、形はそのまゝの姿で復元を
したものである。】
(現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)
であり、
であったからです。
とはいえ、今は『叡山攻め』の連載中でもありますし、ここで真盛さんのことを
書こうと思って西塔ではパスしたので、戦国モードに入る前に
西教寺と真盛さんについて紹介しておきましょう。
西塔入口付近にあった「真盛上人修学之地」碑の解説を要約して再掲すると、
1443年、伊勢大仰郷で誕生
7歳で川口光明寺盛源律師に師事
14歳で光明寺において剃髪出家得度、真盛と号す
16歳で尾張密蔵院に遊学
19歳で西塔南谷の南上坊慶秀和尚の室に入り20年間修学
25歳から10年間応仁文明の大乱が起こり、
41歳、社会浄化のために黒谷隠棲を決意
という経歴であり、恵亮堂の前にある真盛さんの寿塔の解説では
黒谷隠棲にあたって寿塔を建てたのは「決死の覚悟の表明」だったとあった。
上の解説では黒谷隠棲は「社会浄化のため」とあるけど、
『京都発見9 比叡山と本願寺』(梅原猛/新潮社)によると
35歳で三部都法大阿闍梨法印大和尚位となり、40歳で権大僧都となるなど
順調に出世を重ねていったらしい。
ところが、40歳の時に母が亡くなり転機が訪れる。
母の影響が大きい高僧というのは結構いるもんで、
真盛さんもこれをきっかけに【自行を励まし、偏(ひとえ)に化他(けた)を先とす】
(前掲書より)として自ら出世の道を外れ、黒谷へ隠棲したという。
まあ、母の死だけではなく長く続いた応仁の乱の影響も確かにあったんでしょうけどね。
手持ちの資料で真盛さんについてのものはロクにないので
黒谷でどういう日々を過ごしたなどの詳しいことはわからないものの、
この後の彼の活動から黒谷で過ごした期間が真盛さんに大きな影響を与えたであろうことは
想像がつく。
黒谷青龍寺は浄土宗を開いた法然(法然房源空)が修行した寺として有名で、
法然が叡山で源光⇒皇円⇒叡空と師を替えたあたりは法然堂のところでも
簡単に紹介してますが、その叡空さんがいたのが青龍寺で、
叡空さんの師は融通念仏宗の開祖・良忍。
法然はここで恵心僧都源信やその他中国における浄土教の先達たちの教えを
心の糧としながら、その後の浄土宗を開く道を突っ走っていった。
基本的に法然さんの教えは「ひたすら念仏を唱えよ」というものだったけど、
決して戒をおろそかにしていた訳ではない。
「叡山攻め(122)」に続く日本における戒の大きな流れについては
また別のところで書く予定なのでここでは簡単にとどめますが、
長い歴史の中で真摯に修行に励む僧の中には「戒」をどう取り扱い、どう消化するか
色々と悩んだだろうという方達がいる。
法然もおそらくその一人で、黒谷での師の叡空は
恵心僧都源信の名著『往生要集』の講義に長け、
また大乗戒と密教でも第一人者という高僧で、この方の下で戒を守る生活を送った。
さらに大変な勉強家で優秀な僧であった法然さんは、『法然上人絵伝』によると
華厳宗や三論宗などの奈良仏教界の高僧とも問答して相手が弟子の礼を取り、
その相手から色々学んだとされ、その中の大和中川寺の実範(じっぱん)からは
密教と四分律を受けたという。
四分律ってアレですよ・・・鑑真さんが日本に持ち込んだ具足戒。
念仏一本槍じゃなく、しっかりばっちり戒の基本も学んだ人だったんですね、
法然さんは。
もちろん、法然から真盛さんまでは時代の開きがあるので直接の影響とまでは言えなくても、
そういう伝統が黒谷に息づいていた可能性はある。
して、念仏と戒を両手に携えた真盛さんは黒谷から世に出ていく。
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