戦国ジジイ・りりのブログ

2015/06/26(金)23:19

叡山攻め(194) さかのぼり聖衆来迎寺

旅日記(近畿)(267)

粟田建設様はおけいはん坂本駅の近くだけど、さかのぼり2つめのスポットは そこから東へ行った先にあるJR比叡山坂本駅を越えて琵琶湖岸の近くにある 聖衆来迎寺(しょうじゅらいごうじ)。 (場所はこちら)                 室町期以降の歴史についてはそれなりに記録があるようだけど、 それ以前についてはあまりはっきりしていないらしい。 寺伝によると、寺の開基は最澄でもとはお地蔵様を祀っていた寺だったのを のち源信が再興し、ここで源信が紫の雲に乗ったご来迎を見たことから 紫雲山聖衆来迎寺と称したという。 阿弥陀如来ご一行様のパレードについては源信の歴バナで書いてるので おわかりでしょうが、浄土色の濃い寺で、源信はここを念仏道場にしたといわれる。 ま、当時のわたくしは「横川の僧都」源信の名前ぐらいは知ってたけど、 まだ仏教には全然興味のなかった頃で、仏教史萌え~でここに来た訳じゃありません。 この記事を書いてる時点でのわたくしの脳内構成比率は、 仏教関連の話を書き続けてきたおかげで仏教:60%、戦国:15%、江戸:15%、 建築:10%ぐらいでかなり戦国色は薄れてしまってますが、 100%戦国ジジイだった当時のわたくしが聖衆来迎寺でお目当てとしていたのは2つ。 まず最初が入ってすぐのところにある表門↓。         ・・・あいにく、修理工事中でね(2011年9月当時)。 ご覧の通り上から下まで完全に覆われていて、 「ここに門がある」ぐらいのことしかわかりませんでしたが、 この門は坂本城の城門を移築したという伝承を持っています。 この時の解体修理の際に行われた調査では、櫓門を薬医門に改築した可能性が窺われ、 坂本城の移築門という可能性がより高まったそうな。 お寺訪問といってもこの時は堂宇を観に行った訳ではなく、 建築への興味も芽生え始めた程度の頃だったので堂宇のロクな写真はありませんが、 こちらが本堂かな↓。         聖衆来迎寺には貴重な寺宝が多く、毎年8月16日だけは虫干しで お宝も一般公開される。 その中でも多くの人がお目当てとするであろうお宝が、「六道絵」(国宝)。 どういう絵なのかは、源信の歴バナを読んだ方にはおわかりですね。 これはもとは横川の霊山院(りょうぜんいん)にあったものなんだそうな。 はい、源信が釈迦講を行った、あの霊山院ですよ。 霊仙院の記事では毎日作法についても簡単に紹介してますが、 聖衆来迎寺ではその霊山院釈迦堂毎日作法も所有しているんだそうな(重文)。 毎日作法も虫干しで展示されるという話だから、 六道絵よりもそっちの方が観たいよな。 だって六道・・・特に地獄なんかは、『往生要集』の本文だけでもう充分だから もちろん毎日作法ももとは横川にあったものでしょう。 こちらが本堂の裏手にある客殿↓。        写真じゃちょっとわかりづらいかもしれませんが、 真ん中から右手の下に写ってる白いのが本堂の縁。 これ、石造りなんです。 縁つったら、フツーは木でしょ。 これは立地に関係するもので、琵琶湖にほど近いこの場所は 時に琵琶湖の水が押し寄せることがあったんだそうな。 地図を見ると、聖衆来迎寺のすぐ東には国道161号線があって、 その東には琵琶湖に面した工場があるんだけど、 地形的に工場の敷地は埋め立ても含んでそうだから、 そうなると昔の聖衆来迎寺はもっと琵琶湖に近かったことになる。 聖衆来迎寺は平地にあるので、確かに浸水なんかもあったのかもしれない。 この客殿は入れないのでとりあえず見える部分だけ撮りましたが        解説板がございます。  【重要文化財建造物 聖衆来迎寺客殿 一棟   本堂のすぐ西側にある客殿は、桁行十間、梁間六間、一重、南面入母屋造、北面切妻造、   こけら葺の建物です。   内部は二列三室、つまり六室からなり、これに旧書院や茶室が付いています。西南の   上座の間は床、棚(井楼棚)、天袋、書院を備えた最高の室で、欄間彫刻も華麗です。   上座の間のほか竜虎の間、仏間、四皓七賢の筆による障壁画によって飾られています。   江戸時代初期の代表的な客殿で、寛永16年(1639)頃の建築と伝わっています。   大正11年4月13日に国の指定文化財となりました。】   (漢数字は戦国ジジイが変換) 寛永なら、天海も手を貸してるかもしれんな・・・ さて、これら主要堂宇の脇には奥へ延びる道があります↓。        奥にお堂が写ってますが、これの向かって左側が墓地。 そこがこの時の2つめのお目当てです。 その辺には、すごい木もあった↓。        もうほとんど記憶にありませんが、これが奥のお堂の正面かな↓。        して、墓地でのお目当てがこちら↓。        織田家家臣にして宇佐山城主・森可成(よしなり)の墓です。 戦国ファンには説明はいらないでしょうが、 森可成は知らなくても「森蘭丸の父」といえばおわかりでしょう。 森蘭丸(長定)は日本一有名な小姓。 ただ、一般的知名度と活躍度とは必ずしも一致しない。 墓の前にある立て看板にも(蘭丸の父)とあってお気の毒な可成さんですが、 主君への貢献度でいえば有名な息子達よりもはるかに父の方が高い。 可成が死んだのは織田軍の「叡山攻め」より前の元亀元年(1570)。 浅井・朝倉連合軍の出撃の知らせを受けて宇佐山城から出陣した可成は 坂本に出て街道を封鎖し、合戦となった。 この戦いには石山本願寺からの要請を受けて叡山の僧兵も加わったとされ、 奮闘の末坂本で討ち死にする。 享年47歳。 聖衆来迎寺はもちろん天台の寺なので織田軍とは敵という立場になるけど、 ここの住職がひそかに可成の遺骸を運んで葬ったといわれる。 これまでの記事にも紹介してきたように、叡山をはじめ坂本には 「織田軍に焼かれた」という被害を訴えるところが少なくないけど、 聖衆来迎寺にはそういう話はない。 どころか、横川の遺宝などが聖衆来迎寺に現存し、 「近江の正倉院」とまで言われる。 まあ、「叡山攻め」の際には仏像などの寺宝を琵琶湖の対岸へ避難させたともいうけど、 横川のお宝なんかが聖衆来迎寺にあるのも避難の一環だったんじゃないかって気もする。 だとすれば避難させるだけの時間的余裕もあったということになり、 よく言われるような寝耳に水的な突然の悪魔的所業でもないんじゃないかとも 思ったりもするんだけど、とりあえずそこは置いといて。 聖衆来迎寺は「叡山攻め」の際、焼き討ちの対象から外されたともいい、 それは可成の墓がここにあったからだと言われる。 これでここでのメインの2つは終わりですが、 この墓地にはもうお一方、戦国関連のお墓があります↓。        先年の映画「清州会議」を観た方も多いかもしれませんが、 清州会議で秀吉が利用した織田信長の嫡孫・三法師がのちの織田秀信。 その母であり織田信忠の側室が寿々(鈴)姫。 寿々姫は塩川長満の娘というのが通説のようだけど、 異説もあって詳しいことはよくわかっていないらしい。 なんで聖衆来迎寺に寿々姫の墓があるのかもわかっていないみたいなんだけど、 聖衆来迎寺には織田秀信の画像もあるんだそうな。 ↓ぽちっとお願いなっし~。 にほんブログ村

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