2015/11/18(水)23:21
将軍たちの宝(11) 頼朝と坂東武者
ここから源頼朝さんの登場となりますが、また平氏の系図。
娘婿にあたる頼朝をバックアップした北条時政が平氏の出だということは
まあ広く知られていると思いますが、こうしてあらためて系図を見てみると、
鎌倉幕府を支えた有力御家人の、なんと平氏の多いことか。
それでも、平氏の出とはいってもみんながみんな京で活躍した「平家」を
一丸となって支援したという訳でもないようだけどね。
とはいえ、石橋山で敗れて安房に渡った頼朝一行はハナから
ブレーメンの音楽隊のように行く先々で歓迎されて土地の武士団を従えて
意気揚々とリベンジに邁進していった訳じゃない。
まずは千葉・上総などの房総連中を味方につけることからスタートした。
房総連中が頼朝に従ったことについては個々の事情や考えがあったとされるけど、
とにかく千葉県ダンジョンクリア。
ここから海に近いところを通りつつぐるっと内海を回り込んでいくことになるけど、
ここで少々難儀した。
ここまでの記事では良文流がメインでしたが、良文の弟の良茂の系統に三浦氏がいる。
三浦氏は早い段階から頼朝派になっていたようだけど、系図の下の方にいる義澄は
三浦一族の中で最初に頼朝のために功を立てたとされる。
が、その父の三浦義明は、江戸重長・河越重頼・畠山重忠の秩父軍団に本拠を攻められて
討ち死にしていた。
本城が落城する前、三浦義澄は父の命によって脱出し、
頼朝を追いかけて安房へ渡った。
さて、千葉県ダンジョンを終えて次なる東京都ダンジョンをクリアするには
秩父一族を何とかしなければならない。
豊島氏や葛西氏などは早々と頼朝に臣従したようだけど、先に三浦氏を攻撃していた
江戸・河越・畠山の仲良し秩父トリオは頼朝の招きを拒否した。
ま、結局は3氏ともそろって頼朝の下に馳せ参じることになるんだけど、
頼朝は先の遺恨は忘れるようにと三浦義澄を諭し、仲直りの仲介をしたとされる。
こういうエピソードや平氏出身の者が多く有力御家人になったことを考えると、
頼朝という人はやはり偉大な人物であったのか~とも思ったし、
何より京で活躍した「平家」のように都を本拠とせず、
遠く離れた鎌倉に本拠を置いたことは炯眼だよな~とも思った。
・・・が、気骨たくましい坂東武者を幕下に置いたことで勝利をもぎ取れたものの、
一方ではその心強い味方が一種の「足かせ」になった面もあるらしい。
千葉県ダンジョンの「個々の事情や考えがあった」というのがその理由で、
房総連中に限らず、頼朝の下に馳せ参じた武者たちは単に頼朝に心服したというよりは
個々の事情によって政治的に去就を判断したというのだ。
頼朝が鎌倉で幕府を開いたのはなぜか・・・
周囲を山と海に囲まれた、要害の地だったから。
朝廷の影響を受けずに、独自の体制を築きたかったから。
父の義朝が住んでいたから。
教科書や一般で言われる理由としてはこんなとこだろう。
清盛らの「平家」が京に本拠を置いたのはいかにもマズかった。
しかし、どんなことにも段階というものはあり、あれはあれで仕方がなかった。
武家として史上初めて政権を握りながら、朝廷と密接に関わったのは
時代の限界とも言えるのだろう。
鎌倉幕府の成立は「平家」の繁栄の後なので、「平家」の失敗の原因を鋭く分析した頼朝は
あえて東国に身を落ちつけた。
「貴種」のヒーローの誕生を熱狂的に歓迎した坂東武者たちはこぞって頼朝の下に参集し、
武家による武家のための王国が東国に出来上がった。
鎌倉幕府の成立とはそんなとこだろうと思っていた。
が、実際はそんな単純なものではなかったらしい。
【そして、このような内乱期の流動的な政治情勢のなかで、内乱勃発時には誰も想像
しなかったに違いない事態が生みだされてくることになる。すなわち、関東を中心とした
反乱軍が相模国鎌倉に本拠地をおいたまま軍事的成長をとげ、唯一の「官兵」として
みずからを位置づけていく事態、それが鎌倉幕府の成立であった。鎌倉幕府は、治承
4年の内乱勃発時から文治5年(1189)の奥州合戦にいたる、10年ちかくに
わたって続いた「治承・寿永の内乱」という未曽有の規模の全国的内乱の予期せぬ
結末だったのである。】
(『源平合戦の虚像を剥ぐ』川合康/講談社選書メチエより。漢数字は戦国ジジイが変換)
わたくしたちはもちろん鎌倉幕府成立の後に生まれ、
ほとんどの人がまず単純化された教科書的な説明から入っていて、
治承・寿永の乱・・・いわゆる源平の合戦の結論を知っているので、
この大きく変わる時代を詳しく知っている歴史ファンやプロ以外は
「鎌倉幕府創立の神話」をそのまま鵜呑みにしているんじゃないかと思う。
もちろん、わたくしもその1人でした。
しかし、ちょっと詳しい本などを読むとなんとこの時期の複雑なことか。
たとえば、頼朝が坂東武者を糾合していく場面だけでも、
「力をつけてきた武士に自立心が芽生え、蜂起したヒーローを熱狂的に迎え、
東国に武士の国の樹立を目指して一丸となって戦い、あくどい平家を滅ぼした」
なんてかっこいいものではなく、千葉県ダンジョンで頼朝に味方した
千葉氏・上総氏はともに藤原氏と深刻な対立状態に陥っていたという。
つまり、房総連中からすれば自分の問題を解決するのにいいチャンスをつかんだ訳で、
「政治的選択」によって頼朝に付いたと川合氏は言う。
武蔵の武士団の場合はそこまでの理由はなかったようだけど、
最終的に頼朝に従ったものの、「しぶしぶ」だったんじゃないかという気もする。
流人だった頼朝が挙兵した時から支援していた北条氏は、
のちに強大な勢力となるので初めからそういう強力な勢力だったのかと思いがちだけど、
実は頼朝挙兵時点では大したものではなく、伊豆にはもっと大きな有力者もいたそうな。
そもそも頼朝自身も・・・あ、ここも川合康氏のお言葉をお借りしましょう。
【頼朝の伊豆における旗揚げも、通常は、諸国源氏に挙兵をよびかけた以仁王の令旨が
契機となったと説明されている。しかし、頼朝の挙兵が以仁王の挙兵から3ヵ月を
経てなされていることに注目した元木泰雄氏は、頼朝が蜂起した要因を以仁王の
令旨ではなく、以仁王の挙兵事件以後の軍事的緊張の高揚にともなう東国での
平氏家人の活動の活発化にもとめている。
源氏の流人であった頼朝はもちろんのこと、平氏軍制から疎外された東国の武士たちの
なかには、所領支配のみならず、自身の存亡の危機にまで直面していた者もあったので
あり、そうした切羽詰まった現実の状況が、頼朝に挙兵をうながし、それを実行させた
最大の要因であったと推測されるのである。】
(前掲書より)
つまりは頼朝すらも含めたそれぞれが、にわかな時代の変動の中で
「やるっきゃない」状態に追い込まれて頑張ってみたところ、
途中で戦の天才・義経なんかも出ちゃったのでなんか勝っちゃった~みたいな?
いや、現実はもちろんもっと複雑ではあるんですが。
さらに朝廷ではまた別の権力闘争などもあるので、鎌倉初期頃までの
朝廷と武家方の動きを読むと、ぐちゃぐちゃすぎて砂吐きそうになりました。
この頃の京には藤原師輔の子孫にあたる九条兼実と青蓮院の君(慈円)がいます。
いや、2人とも大変な時代を生きたんだな~とあらためて思いましたが、
特に九条兼実は幕府もからんで色々苦労しているので、
そういう心の隙間にがっちり食い込んだのが法然だったのか・・・
そりゃ~日本浄土宗が幅広い身分でブームにもなる訳だよな~とも思ったりして(笑)。
頼朝が挙兵したのが関東だったから、武蔵武士団もある意味「やるっきゃない」状況に
置かれたとも言えるかもしれませんが、どちらかというと「巻き込まれた」って方が
強いんじゃないかと思ったりもする。
さて、色んな歴史を知ると朝廷、特に天皇制というのは実に不可思議な存在で、
日本以外の国だったらとっくになくなっていたのは間違いないだろうと思いますが、
頼朝自身は中央は眼中になかったのだろうか?
どうもそういう訳でもないらしい。
まあ、ある程度先が見えるまでは「この戦いが終わったらどこで何をしよう」という
明確なビジョンは持っていなかったかもしれないけど、
リベンジ戦の途中、富士川の戦いで勝利したあと、そのまま上洛する気でいたらしい。
しかし、それは現実のものにはならなかった。
「常陸の佐竹は多くの軍勢を持ってるのに
まだ帰属してないッスよ。
ほかにも、おごれる者は関東にいっぱいいます。
だから、まず東国を平定するのが先っしょ?」(by 上総&千葉)
【これは結果的に鎌倉幕府成立過程においてきわめて重要な意義をもつ決断となったが、
じつはその常陸国佐竹氏と上総・千葉両氏との間で相馬御厨をめぐって長年の紛争が
つづけられていた事実を知るとき、彼らが頼朝の上洛を阻止し、佐竹攻めを主張した
意図は明瞭となろう。そこには彼らの個別的利害がまず反映されていたのである。】
(前掲書より)
もしここで房総連中が進言しなかったなら、「鎌倉幕府」は成立しなかったかもしれない。
動機と結果がまったくと言っていいほど違ったことは歴史の妙でもありますが、
それぞれの思惑を抱えた武者たちを従える頼朝軍団は、初めはそれこそ
「兎合の衆」的な感じだったかもしれないけど、それを見事に統制していったのは
頼朝およびその側近たちの実力でしょう。
のちに有力御家人をつぶしていった北条氏は、一般的にはあまりいいイメージを
持たれないかもしれないけど、奇跡の勝利をもぎ取った「鎌倉殿」に忠誠は尽くしても、
坂東武者の基本的性向というのはそう変わるもんでもない。
だから、北条氏がやらなくてもいずれ誰かが同じことをしただろうと思う。
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