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カテゴリ:郷土の歴史
今日、苫小牧郷土文化研究会の公開講座が、 市博物館で開かれ 「古文書にみるユウフツ場所」 のテーマのお話でした 1800年(寛政12年)に”ユウフツ場所”が江戸幕府の 直轄地として現在の苫小牧市勇払に設置されました その時代に”ユウフツ場所”で場所請負を一手に引き受けて いたのが、”商人の 山田文右衛門” です 1821年~1870年代まで 約50年間に渡り ユウフツ場所を中心に商取引を一手に引き受けていたようです 8代目 山田文右衛門は、”ユウフツ越え” など それまで、川で移動していた場所などを 陸路の交通の利便性に尽力を注いだようでその痕跡が 千歳空港の敷地内に牛馬車のわだちとして見つかりました また、この写真が、10代目 山田文右衛門です (1853~1868年)まで15年間在職し、 タルマエ浜でのイワシ漁を盛んにし、イワシ油と〆粕が、 ユウフツ場所の主力商品となり、東蝦夷地での 一番の交易高の港になったのでした またサル(沙流)場所でのコンブ養殖の先駆者でもあります 商人ですが、幕府に貢献したため、苗字と帯刀を許されたそうです 市内の勇払恵比寿神社の奉納品にも山田家の名が残されています また、門別神社や浜厚真神社、厚岸の国泰寺にも 山田家の名入りの品々が、奉納されています しかし、その陰には、蝦夷地に先住していたアイヌ民族の 方々の出稼ぎ労働なくしては、語れません 今日のお話によると、アイヌの方々の賃金の低さは 当時の和人の賃金の10分の1で、ほぼ強制労働であったようです はじめは、松前藩士が、お米(石高)の変わりに それぞれの場所を藩主から 与えられていたのですが その場所でのアイヌ人との取引(鮭や毛皮など)を 商人に委託してからは 商人は、利益を生み出すために、そのしわ寄せが アイヌ民族の方々の交易品の価格落ちや 過酷な出稼ぎ労働に なっていったようです また古文書によると天保14年(1844年)に 地震と津波があり、その翌年に疫病が発生し150人が死亡 過労や和人に同化のためのストレスが、大きいことも その死者数に反映されていると 松浦武四郎の文書から 読み取れるそうです 今回のお話で”ユウフツ場所”は、北前船が、接岸できる場所が ないため伝馬船(小さな舟)によって荷物を運んでおり ”ユウフツ場所”を出航した北前船は、まず”松前の港”に入り そこから本州の日本海側の港に荷物を運んだそうです もうひとつ、印象に残ったお話が、 アメリカの黒船のペリー提督が、蝦夷地にやって来た際に その会見場所に選ばれたのが、 箱館にある山田寿兵衛宅が使われたそうです 商人の家が選ばれるということは、それだけの 力と財力を持っていたということになりますね 歴史の一幕に 商人が大きく影響を及ぼしていることを 今日の公開講座で教えていただきました お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年11月29日 00時02分12秒
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