明日。
「花が好きな人は花屋になればいい」あるインド哲学者の言葉だったと思います。定年後の自由を夢見て無理を重ねる人がいます。定年退職した後、第二の人生を謳歌しようと懸命にお金を貯める。しかし、貯めこんでいるのはお金だけではありません。そんな方、あるいはそのご家族が患者さんで来られることがあります。そしてご家族から、定年を迎えた途端の不幸を聞くこともあるのです。誠に切ない。先日使ったフレーズを今一度使うならば。現代の日本では生きることが当たり前になってしまっている感がありますが、本当は約束された明日などありはせず、ないがしろにしてよい今日もまたありません。ものの観方、それに伴う肉体、常に変化していきます。久しぶりに昔観た映画を観返してみる、聴いた音楽を聴き返してみると、また違って映る、あるいは響くというのは誰しも体験があるはず。諸行無常。身近に愛や美、楽などを感じることができなくなっていたならば、感性を殺してしまっていたならば、果たして幸福に余生をおくることはできるのでしょうか。外へ求めることを繰り返し、内で不安を膨らませていくのではないでしょうか。明日は、未来は、今日の積み重ねによって築かれる、と想います。「未だ生を知らずしていずくんぞ死を知らんや」生きることもろくすっぽわからんと、なんで死ぬことがわかるんじゃい。と中国の哲学者・孔子。言い換えるならば、「未だ今を生きずして、いずくんぞ明日を生きんや」。冒頭の言葉が受け入れられないようなシステムは、人を、生命を活かすシステムではなく、殺すシステム。よって、変えていく必要を感じます。もちろん、やりたいことをやっていくならば、強い想いと覚悟、道理に適っているという点が、どんなシステムでも必要なのでしょうけど。