【特集:海のサステナビリティー】 大村 亮:クラスレートハイドレートを用いたトリチウム水分離技術
【特集:海のサステナビリティー】大村 亮:クラスレートハイドレートを用いたトリチウム水分離技術https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/features/2024/06-3.html三田評論ONLINEより転載大村 亮(おおむら りょう)慶應義塾大学理工学部機械工学科教授トリチウム水分離はできないのか?「海のサステナビリティー」というテーマと私の研究対象であるハイドレートとの関係で何を書くべきなのか、20年前であればメタンハイドレートの資源開発のことを書けばよかったのだろうと思うが、カーボンニュートラルへ向けた近年の社会の動きを考えるとメタンハイドレートにしがみつくのはよくないと考える。ここでいうハイドレートとは学術的にはクラスレートハイドレートと呼ばれる物質のことであり、水分子によって形成される、かご状構造の中に水ではない物質の分子(ゲスト分子)が入り込んで形成される結晶である。水分子の水素結合によって結晶構造の主要部が構成されることと、物質量(モル)基準で85%以上が水という組成から氷の一種と考えることもできる。今回はハイドレートと海が関係しうる話題としてトリチウム水分離をあげることとしたい。福島第一原発の敷地内に蓄積されてきたALPS処理水の海洋放出が決定され、実施されつつある今、あの水は本当に放出するしかないのか、という疑問をお持ちの方も多いのではないかと思う。ALPS処理水とは多核種除去設備によってほとんどの放射性物質を除去した排水である。しかし、トリチウム水だけはALPS処理でも除去できない。ALPS処理水の問題はトリチウム水の残留だと言ってよい。トリチウム水とは水素の同位体である三重水素=トリチウムが水の水素と置換しているもののことであり、トリチウムをTとして化学式を示せばT₂OあるいはTHO(あるいはHTO)である。トリチウム水を分離(あるいは濃縮)し、ALPS処理水を浄化する技術は存在しないというのが東電、政府の結論となっている。しかしながら筆者の研究室においてはハイドレートを用いることで福島第一のALPS処理水相当の100万Bq/kg程度の濃度のトリチウム水を処理して、海洋放出時の基準となっている1500Bq/kgを下回る濃度まで低減させるという分離実験を実験装置の内容積にして100㎤程度という小さなスケールにおいてではあるが成功させている。この研究開発は(株)イメージワン、創イノベーション(株)との共同研究として進められているものである。ハイドレート法によるトリチウム水分離濃縮ALPS処理水のトリチウム水を分離濃縮する技術は存在しないという現状の結論に至っている理由としてはその放射能濃度と総量の2つがあげられる。福島第一原発には100万Bq/kgの濃度を有するALPS処理水等が100万トン以上(1000トンのタンクが1000基)貯蔵されている。100万Bq/kgというと感覚的にすごく高い濃度のように感じるが、トリチウム水が放射性同位体として扱われるのは10億Bq/kg以上であり、放射能濃度の観点では放射性同位体には該当しない低濃度である(一方で飲料水としてのWHOの指針は1万Bq/kg以下であるから飲んでも大丈夫とは言えない)。軍需目的(例えば水爆製造)や原子力発電関連技術の一環として、過去にトリチウム水の分離濃縮技術の開発は進められてきてはいるが、前記のような低濃度で大容量のトリチウム水を対象とするような事例はこれまでなかった。しかし、蒸留、凍結、電気分解等を行えば必ず同位体の分別は起こるので大なり小なりの分離濃縮は可能である。目下のALPS処理水の処理について求められるのは、100万Bq/kg程度の低濃度のものをさらに低濃度化して1500Bq/kg以下とする分離性能を有していて、かつ100万トン以上という総量に対応できる大規模処理向けの技術である。既存技術で最も分離性能がよいと考えられているのは、電気分解と触媒を用いた化学的置換を組み合わせたCECE法であるが、この方法は高濃度かつ少量の処理に向いたものであり、低濃度大容量の場合にはそのコストは天文学的なものになってしまうと思われる。このような状況から福島第一原発のALPS処理水を浄化する技術は現状存在しない、ということになっているのである。ハイドレート法によるトリチウム水分離濃縮は水素同位体を含む水、つまりトリチウム水や重水(D₂O)がより高温で固体化するという現象を利用したものである。軽水(H₂O)の融点・凝固点は0℃であるのに対し、重水は3.8℃、T₂Oでは4.5℃である。氷生成だけでなく、水からなる固体であるハイドレートでも同様な現象が起こる。水ではない方の物質、ゲスト物質によって多少異なるが概ね2℃から3℃程度高温で重水はハイドレート化する。このような物性があるため、トリチウム水を含む水を固体化すれば固体側にトリチウム水が高濃度化されて取り込まれる。ゲスト物質を必要としない氷生成を用いる方が簡単とも言えるが、ハイドレートには氷よりも高温で生成するという物性があり冷却コストの面で有利である。ハイドレートにはゲストと水の界面が結晶成長の優先的な場所となるという結晶成長の特性があり、このため塊状の固体ではなく、間隙を多く有する多孔質体として生成しやすい。図1に筆者の研究室で生成させたハイドレートの観察画像を示す。かき氷状に生成していることがおわかりいただけるかと思う。固体と液体の接触面積が大きいほど分離の効率は高くなるのでハイドレートが多孔質状に生成するという特性が氷生成では得られない分離性能の1つの理由と考えられる。図1 圧力容器内に生成させたハイドレート多結晶体の観察画像重水を用いてトリチウム水を除去する筆者らの開発しているハイドレート法ではもう1つ重要な現象を活用している。重水を用いた共沈である。この共沈とは平易に述べれば似たもの同士が集まってくるという現象である。軽水、重水、トリチウム水の物性を比較すると、重水とトリチウム水がよく似ていることを活用してより効率的にトリチウム水を除去しようというアイデアである。実験はまずは重水を用いたハイドレートの多孔質体を形成させることから始まる。ゲスト物質には比較的低圧でのハイドレート生成が可能なHFC-134aを用いている。重水とHFC-134aを圧力容器内で一定時間接触させることによって重水とHFC-134aからなる重水ハイドレートを生成させてハイドレート化せずに残った重水を容器下部から排出することによって重水ハイドレートの多孔質体が形成される。この実験操作によって生成させたハイドレートの観察画像を図2に示す。このハイドレート多孔質体の空隙率は50%程度である。続いて、重水ハイドレートが成長しうる温度圧力条件を維持しながら、このハイドレート多孔質体の空隙に模擬ALPS処理水である100万Bq/kg程度の濃度のトリチウム水を注入して、装置外に用意したポンプを活用して1時間程度循環させる。この操作を模式的に示したのが図3となる。循環中に少しずつハイドレートが成長するときにトリチウム水がハイドレートに優先的に取り込まれることによって、液体側のトリチウム水が固体側に濃縮されていくことになる。図2 トリチウム水分離実験装置で生成させた重水ハイドレート多孔質体図3 トリチウム水分離実験模式図実験研究の初期の段階で得られていた50万Bq/kg程度のトリチウム水濃度を上記の1時間処理によって1500Bq/kgを下回るまで低減させた結果についてはすでに学術論文として公刊されている(文献1)。よりアカデミックな内容に興味のある方は文献もご参照いただければと思う(化学工学分野における最高評価の学術誌に掲載されたことを筆者としてはアピールしたい)。このハイドレート法ではハイドレート側にトリチウム水を濃縮させることで水側のトリチウム水濃度を低下させている。処理を続ければハイドレート側のトリチウム水濃度が上昇していくことになる。その濃縮されたトリチウム水はどうするのかというと当面福島第一原発の敷地内に保管しておくということなる。ハイドレート側に濃縮させることで現状千基を超えている貯蔵タンクの数を大幅に削減することができる。濃度が下がった水はどうするかというと、やはり海洋放出ということにはなるが、その放出量は希釈にのみ頼る現状の値の1000分の1程度にまで大幅に低減される。今後の実用化に向けてこの技術開発は現状実験室レベルの操作に成功した段階であり、今後スケールアップを進めていく必要がある。ALPS処理水は今でも日量約100トンずつ増加していること、すでに100万トン以上が貯蔵されていることを考えると、実用的な技術として求められる処理量は1日あたり数百トン程度となる。この量は実験室の規模からみれば途方もない値のように思われるが、一方で社会で運用されている浄水場、海水淡水化プラントなどの水処理施設の規模を考えればかなり小規模なスケールである。筆者の研究室ではすでに100㎤規模の装置からスケールアップの一環として2桁大きな規模となる内容積34リットルのハイドレート生成装置を設計製作して運転を開始している(図4参照)。日量数百トンの処理を実現するにはさらなるスケールアップが必要である。我が国では10年ほど前に、三井造船、中国電力、NEDOの共同研究としてハイドレート製造・貯蔵・輸送のベンチスケールプロジェクトが実施され、天然ガスのハイドレートを1日5トン製造することに成功している。そのプロジェクトには筆者も学術的な評価、助言を提供する立場から参画した経験がある。その経験も生かしながら産業界と連携して数年以内の実用化を目指して研究開発を進めている。図4 34リットルの内容積を有するハイドレート生成装置外観(全高:2m)(文献1) Satoshi Nakamura, Toshihiro Awata, Hitoshi Kiyokawa, Haruki Ito, Ryo Ohmura, “Tritiated water removal method based on hydrate formation using heavy water as coprecipitant”, Chemical Engineering Journal, Vol. 465, 2023,Paper ID: 142979; DOI: 10.1016/j.cej.2023.142979※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。