空想俳人日記手塚治虫作品限定版

2007/05/10(木)11:47

手塚治虫「空気の底」

カ行(6)

箱の中 空気の底で 汗たらし   このショートストーリー連作集は、けっしてシリーズとしての一貫性のある作品群ではないけれども、そのひとつひとつが何故か最後の作品「ふたりは空気の底に」に終焉されるような感覚で、「空気の底」で生きている私たち人間のドラマの数々であることを改めて認識しました。  かつて、このオムニバス的作品群の中で印象に残っていたのは、「ふたりは空気の底に」は勿論、「ロバンナ」「処刑は3時に終わった」「ジョーを訪ねた男」「野郎と断崖」「うろこが崎」「わが谷は未知なりき」「猫の血」。これらは再読においても改めての認識がありました。  妻とロバ、本当に心が入れ替わったのか、愛情における狂気の沙汰なのか、の「ロバンナ」。心の癒しの麻薬に対して、行動とは心と密なものなのか乖離しているものか、の「処刑は3時に終わった」。自らの存在とは肉体に依存するのか精神に依存するのか、の「ジョーを訪ねた男」。自己保存の先に自我をも越える生命を尊さを心の奥底から叫ぶことができるのか、の「野郎と断崖」。伝説の悪魔的な姿に現実の悪魔の隠れた形相をどれだけ現代人は察知できるのか、の「うろこが崎」。我々が生きている世界は本当に見たとおりの自由な世界なのか与えられた宿命的世界なのか、の「わが谷は未知なりき」。自らの未来に日常に埋没されることなく予感を抱いて生きていけるか、の「猫の血」。  そんな認識は全て疑問の投げかけ。しかし、かつて印象に残っていなかった、今回の再読によって始めてクローズアップされてきた作品、それは「カタストロフ・イン・ザ・ダーク」。この作品が浮上してきたのに我ながら驚いています。  おそらく、かつては疑問にも程遠いカタストロフが今回の再読で、最も人生を顧みさせてくれることになったのですね。そう、自分が生きてきた中で、あのとき目を瞑って今日まで生きてきたとする自分、実は目を瞑った瞬間、自分の人生は既に終えていたのではないのか。今は全て夢。ぶるぶるって震えます。  あっ、そうそう、もうひとつ挙げておきたい作品、「グランド・メサの決闘」。筋とは外れますが、台詞に「おれは鉄道でもうける奴は大きらいだ」というのがあります。そして主人公は有能な法律家になり鉄道会社のような独占企業をセーブさせる連邦法が作られる経緯が描かれています。私は「おお、我が地域で独占に胡座をかいている名鉄に読ませたい」と思いました。  ちょっといきなり細かな話ですが、本日異常気象のせいか、この地域は5月にもかかわらず気温30度。朝から既にその気配。なのに、朝の名古屋鉄道の通勤電車内、人の熱気も手伝って暑いなんの。汗だらだら。車掌さん何してるの、車両のファン回しなさいナ。が、駄目なんですな。車掌さんの技量判断だけと言うのも情けない。名鉄のCS(顧客満足)度の低さよ。ああ、同じ路線に競合他社がいればこんなことはない、生活者にとって独占企業の利用者不在感。  実は、その後、駅を降りて身体がいきなり冷却されたのだと思うのですが、一日鼻水たらたら状態、考える仕事は全く捗らず。供給側は「それでも利用するのは便利だからじゃろう」と左団扇でいると思うと、いやいや利用しなければならない自分が情けなくなりまする。  日本の民鉄の中で、競合他社がいない名古屋鉄道は一番利用者に嫌われている鉄道会社ですね。今度、名鉄に捨て台詞を言いましょう、「おれは鉄道でもうける奴は大きらいだ」と。  ああ、本当に、私たち人間は金魚蜂の水の中で生きる金魚のように、地球の空気の底、名鉄電車の薄くて暑苦しい空気の底に蹲って生きなければならない存在なんだ、そう思います。

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