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今後とも「医療と健康」「食」「共感」のテーマを中心に「話す・食べる・読む」 記事(レポート)を掲載していきたいと思います。 ご意見・ご要望等があればどしどしお寄せください。
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「共感」とは話す内容を理解するだけではなく、話す人自身の有り様を体験すること.
ただ、相手をそっくり体験することは不可能である。当の本人は相手ではないから。そこにはズレが生じる。このズレを心理学では共感的態度という。 前文は、私が「傾聴ボランティア」を知ったとき、真っ先に浮かんできたもの。 人が生死を真剣に考えるときや老いに直面し、苦しんだときに耳を傾けてくれる人がいたらどんなに心強いことか。諸外国ではキリスト教系・仏教系の聖職者がその役目を担ってくれるが、国内では誰が担うのか。まだ浸透しているとまではいえない。 人は死を意識するとき、自分が置かれた「客観的な状況」(もう健康的な姿に戻れない)と「主観的な思いや願い」(健康になり、好きなことがやりたい)とのズレが生じ、 それが深い苦しみとなるそうだ。「苦しみの構造」といわれる。そのとき、傍に「よい聴き手」がいれば、話すなかで自らの心の整理が行えるという。 T大学のM教授は、「傾聴」に必要な技術として反復と待つことを挙げた。「反復」とは相手の話を十分に聴いたうえでフィードバックすること。「待つ」とは沈黙のこと。拒否の沈黙ではなく、話す前のエネルギーの蓄積を意味する。そして私の語学の師、M先生は「相手に聴いてほしいことを聴く」というのを加えた。 実際にM先生のお母様が終末期を迎えられたとき、実感されたそうだ。誰にも心を閉ざした母が、自分に目を注いでくれる人がいるとわかってから笑顔が出たり、気持ちが安定し、穏やかになったそうだ。家族=傾聴する人とは限らない。むしろ、家族は利害が発生し、傾聴できないのではないかというのが議論の結論であった。また、医療・福祉従事者 に対しても、本来は備えているはずの技術すなわち「心の援助」のあり方を問われるのではないか。 思い返せば、祖父が終末期を迎えたとき、私たち家族に見せる姿と動物を通じた友人に見せる姿とは異なったように思えて仕方なかった。その方が「傾聴」の技術をマスターされたということは聞かなかったが、医師に一度死を宣告され、その後復帰されたということは事実であった。、客観的な状況に沿うように、うまく主観を変えていくということを、きっと自らの体験から習得されていたのでしょう。 また何らかの方法で援助していく技術をもっておられたのだと思われる。 「傾聴ボランティア」、早く私たちの身近となってもらいたい存在である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
June 3, 2005 11:45:24 PM
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