|
テーマ:★つ・ぶ・や・き★
カテゴリ:カテゴリ未分類
![]() 1 夕方五時の住宅地。 安価なポリエステル混紡のシャツが、 冬の予感を含んだ北風に煽られ、 ベランダの物干し竿でバタバタと乾いた音を立てている。 主婦である私は、柔軟剤の人工的な香料が微かに漂うなか、 プラスチック製の洗濯バサミを外す単純作業に没頭していた。 洗濯物を取り込もうとベランダに出た瞬間、 空の異変に気付く。 西の空、まだ青みの残る夕闇に、黒い点が浮かんでいる。 最初は三羽、五羽。 漆黒の色。 翼を広げた時の輪郭が、夕闇に溶け込まず、 むしろ空気そのものを切り取ったような、鋭利な黒。 鴉だろうか。しかし次の瞬間、その数は十羽、二十羽と増殖し、 気付けば視界の端から端まで、黒い粒子が空を覆い始めている。 弾丸のような速度で滑空し、瞬きをするたびに、 その数は幾何級数的に増殖していく。十、五十、百。 不思議なのは、鳴き声がまったく聞こえないことだ。 数百、数千の鳥が飛んでいるのに、世界は静寂に包まれている。 聞こえるのは羽ばたきの摩擦音だけ。 ざざざざざ、という布が擦れるような音が、 空全体から降り注いでくる。 それは遠くの滝の音にも似ているが、もっと乾燥していて、無機質で、 巨大な紙鑢で空が削られているような質感だ。 青空が徐々に消えていく。 黒い点が重なり合い、やがて空は完全に暗幕で覆われたようになる。 まるで日蝕だ。 太陽の光が、鳥の隙間からわずかに漏れている。 細い光の筋が、レースのカーテンから射し込む朝陽のように、 不規則に地面を這う。 私の影が、一つではなく、 無数の微細な影の集合体となって足元に揺らめいている。 洗濯物を抱えたまま、私は動けない。 空を見上げたまま、首が固まっている。 頸椎が硬直し、僧帽筋が石のように硬くなる。 唾液を飲み込む動作さえ、意識的に行わなければできない。 鳥達は円を描くでもなく、ただ無秩序に、 しかし同じ高度を保ったまま、 妖しく潤んだように飛び続けている。 漆黒の集合体ながら、 それはそれぞれ独立した無意味な線の断片の集合なのだと、 羽音が気付かせる。 ざざざざざ。 世界の音量が、この摩擦音に奪われていく。 車の音も、隣家の話し声も、すべてがこの羽音の下に沈んでいく。 隣家の赤ん坊の泣き声も、遠くを通る救急車のサイレンも、 すべてはこの黒い天蓋の下に沈殿し、消失するのだ。 そして最も不気味な気付きが訪れる。 すべての鳥が、厳密に同じ方角、 北東三〇度の方向を向いて飛んでいることをだ。 首の角度、翼の傾き、体軸の方向が完璧に一致している。 それは自然の摂理を超えた、機械的な統一性だ。 夜の世界が始まろうとしている。 2 初詣の賑わいが去り、境内に冷気だけが居座る一月の夕刻。 御影石の石段の三十二段目、その端に、それは落ちていた。 朱色の布地は長年の陽射しに焼かれて、 ときいろ 朱鷺色に退色し、縁を飾る金糸は執拗に解けて、 まるで何かの内臓が溢れ出したかのように、 白く細い綿糸が覗いている。 厄除の文字はところどころかすれていたが、 まだかすかに光沢を残していた。 金色の刺繍糸が、冬の弱い陽光を受けて、 病的に輝いている。 拾い上げた瞬間、私は指先に奇妙な違和感を覚えた。 氷点下に近い大気の中で、その小さな布の塊だけが、 三十六度五分の微熱を帯びていたのだ。 生温かい、生き物の肉を直接触っているような感触。 お守りのサイズは、縦八センチ、横五センチ。 手のひらにすっぽりと収まる大きさ。 裏面には『◯◯神社』という墨書きがあるが、 神社名の部分だけが、水で滲んだように判読不可能になっている。 その日から、私の運命は矯正され始めた。 それは幸運という名の暴力だ。 駅の改札で気付いた紛失。冷や汗を流して戻ったベンチには、 財布がまるで誰かが今置いたばかりのような、 不自然な直立不動の姿勢で残っていた。 本当に驚いたのだ。 ベンチの座面の中央、 私が三十分前に座っていた場所に、縦に立てられていた。 中身の現金三万七千円も、クレジットカード三枚も、 免許証もそのまま。 次は階段での転倒。スマホに気を取られ、足を踏み外す。 身体が捻転しながら前のめりに傾き、重力に引かれる。 視界が回転し、コンクリートの段が迫る。 だが次の瞬間、手摺りに食い込んだ私の指は、 革手袋を突き破らんばかりの握力を発揮し、 骨が軋む音とともに私を中吊りで支えた。 片手だけで、体重六十八キロの全重量を支える。 通常なら不可能な体勢。 三秒後、ようやく足が階段を捉え、体勢を立て直す。 左膝に打撲。しかし骨折も、脱臼もなし。 右手首には、手摺りの形に沿った深い痣が残った。 三日間、その痣は消えなかった。 仕事での致命的な誤植。 重要な取引先への提案書で、金額の桁を一桁間違えていた。 うっかりでは済まされない。 契約金額を五百万円と記載すべきところを、五千万円と。 桁が一つ多い。このミスで、会社が被る損害は計り知れない。 通常なら即座に懲戒処分の案件だ。 部長の顔が紅潮し、血管が浮き出た咽喉、怒りで震える拳。 何かを言われる前から履歴書を記入し、 転職することを考えていた。 しかし彼が口を開こうとした、その瞬間―――。 激しく咽せた。肺を吐き出すような咳の合間に、 「・・・・・・もういい、行け」とだけ告げた。 その瞳には、慈悲ではなく、 得体の知れない恐怖が浮かんでいた。 その部長は二十年間、 一度も部下のミスを許容したことがない人物だと周知されていた。 決定打は、雨の交差点だった。 青信号に変わる三秒前、靴底が濡れたマンホールの蓋の上で滑る。 革靴の底に刻まれた溝が、水の膜で完全に無効化される。 バランスを失い、後方へ倒れ込む。 その瞬間、時速六十キロで赤信号を無視したトラックが、 私が立っていたはずの位置を通過した。 あと一歩前に出ていたら、確実に轢かれていた。 轟音。 暴風。 水飛沫が顔を打つ。 あと一歩前に出ていたら、確実に轢かれていた。 救急車のサイレン。騒然とする交差点。 赤信号を無視したその鉄塊が通り過ぎた後、 私は震える手でポケットのお守りに触れた。 お守りは、熱かった。 まるで熱湯に浸したかのような、火傷しそうな熱さ。 そして、そこには拾った時にはなかった、 どす黒い脂のような染みが滲み出していた。 それがまるで涙の跡か、 あるいは黴の胞子が広がったかのような模様になっている。 幸運が次々と舞い込むというのは、 不運と同じく恐怖を感じるものなのだ。 つきまと 得体の知れないものが跟尾っていると不安になり、 その足で拾った神社を訪ねた。 境内に入ると、鴉が一羽、鳥居の上から私を見下ろしていた。 住職は七十歳を越えた老人で、眼鏡の奥の目が濁り、 皮膚は紙のように薄く透けていた。 お守りを見せるや、その眉間に深い皺が刻まれ、 その手に持っていた数珠を床に落とした。 「これは・・・・・・『受難の身代わり』ではありませんな」 住職の声は震えていた。 「これは、運命の簒奪です。お守りが自ら持ち主を選び、 周囲の『不運』を無理やり捩じ伏せている。 だが、運の総量は決まっている。 無理を通せば、歪みが溜まる―――早く、次の者に渡しなさい。 そうでなければ、お前さん自身がこのお守りの『中身』になる」 その夜、寝室でお守りが咆哮した。 物理的な音ではない。鼓膜の裏に直接響く、火傷しそうな熱量。 脳の中心部に、直接言葉が流れ込んでくるような感覚。 「もう、大丈夫」 それは、かつて愛した誰かのような、あるいは死んだ母のような、 ひどく甘美で、粘着質な女性の声だった。 「・・・・・・あのおばあさんに、渡して」 脳裏に、映像が浮かぶ。 満員電車の向かいの席。 膝の上に震える手を置き、喘息のような呼吸を繰り返す老婆。 年齢は七十代後半。着古したベージュのコート。 白髪を無造作にまとめている。 「彼女に渡せ。そうすれば、お前の罪も、 この歪んだ幸運もすべて転嫁できる」 だが、私は逃げた。電車で老婆には渡せず、駅のタクシー乗り場、 雨避けのベンチの隅に、それを遺棄した。 ベンチは緑色に塗装された鉄製。座面には雨水が溜まっている。 お守りを置く。朱色の布が、水を吸って黒ずんでいく。 タクシーに乗り込もうとした例の老婆が、不意に足元を見、 その色褪せた朱色の塊を拾い上げるのを、私は物陰から見ていた。 彼女の顔に、一瞬だけ、吸血鬼のような若々しい艶が走った気がした。 老婆はお守りを握りしめ、タクシーに乗り込んだ。 テールランプが遠ざかっていく。 私は、自由になった。 翌日から、すべてが正常に回り始めた。 仕事では評価が上がり、半年後には課長に昇進。 新しい恋人ができ、一年後には結婚の話が進む。 お守りは私の潜在的な幸運を前倒しで引き出し、 その代償として次の犠牲者を必要としていたのかも知れない。 今、時折あの老女のことを考える。 彼女はどうしているだろうか、 お守りは彼女を守っているだろうか。 それとも、彼女もまた次の誰かを探しているのだろうか。 時折、自分の手のひらを見る。 あのお守りの、生温かい、脈打つような感触が、 今も皮膚の裏側にへばりついている気がしてならない。 3 妹の死に顔は、驚くほど平穏だった。 麻縄の繊維が皮膚に食い込んだ跡が、 紫色の線となって残ってさえなければ、 ただ深い眠りについているだけのようだった。 しかし、彼女の最後の一年は、 精神の摩滅と、音なき悲鳴の連鎖だった。 「死ね」 それは、夕食のカレーを咀嚼する微かな音に混じった。 午後七時十五分。我が家のダイニングテーブルを囲んで、 妹の彩香(当時二十三歳)、母、そして私の三人が座っていた。 あまりに小声で、テレビの音や食器の音にかき消され、幻聴かと思った。 彼女の唇から零れ落ちた。 「え? 何か言った?」と私が聞き返しても、 妹は視線をテレビに向いたまま、人形のように動かなかった。 スプーンを持つ手が、不自然に硬直している。 指の関節が白くなるほど、強く握りしめている。 その声は、憎しみを込めた叫びではない。 まるで明日は雨が降ると予報するような、 平坦で、事実を述べるだけ宣告。 その二週間後、妹が「死ね」と呟いた方向、 つまり壁の向こうに住んでいた一人暮らしの老人が、 風呂場でヒートショックを起こして亡くなった。 発見したのは週二回訪問していたヘルパー。 浴槽の中で、湯が完全に冷めた状態で発見された。 偶然だ。そう自分に言い聞かせた。 だが、二人目(一匹目)―――通学路の犬、 散歩中、リードが外れて飛び出し、トラックに轢かれた。 目撃者によれば、犬はまるで何かに引き寄せられるように、 道路に飛び出したという。 三人目―――担任の教師、 妹は、古いアルバムを見ながら、 その写真を指差してあの忌まわしき言葉を呟いた。 写真の中の山田先生は、若々しく笑っている。当時四十代だった頃の姿。 十日後、山田先生は自宅の階段から転落して死亡した。 単純な転倒事故として処理された。 しかし不可解なのは、遺体発見時、 先生の顔が恐怖に歪んでいたことだった。 葬儀に参列した時、私は棺の中の先生を見た。 化粧で隠されているが、確かに―――何かから逃げるような、 あるいは何かを拒絶するような表情の名残があった。 四人目―――親戚の叔父。 叔父は脳梗塞で倒れ、三日後に亡くなった。偶然だと片付けられた。 妹が、焦点の合わない瞳でその名を、あるいはその方向を指して、 「死ね」と呟けば、世界はその命令に従うように、 二週間の猶予をもって対象を排除していった。 友人と数えてみると、正確に四人だった。 確率計算をすると、これが偶然である確率は、 〇.〇〇〇一七パーセント以下だと友人(数学教師)が、 蒼白な顔で教えてくれた。 十万回同じ状況を起こしても一回起こるかどうか。 つまり、これは―――統計的に言えば、 因果関係があると見なすべきレベル。 妹は、泣いていた。 「私の声じゃないの。誰かが、私の咽喉を使って、 チェックリストを読み上げているみたい」 彼女の声は、絶望に満ちていた。 「止められないの。口が勝手に動くの。 頭の中で、『この人を言え』って命令が来るの」 そして、あの同窓会。 午後七時。渋谷の居酒屋 二十人以上の若者が集まり、安酒と笑い声が充満する居酒屋の個室。 テーブルの上には、焼き鳥の串、 空になったビールジョッキ、枝豆の殻が散乱している。 妹は、隅の席で膝を抱えていた。 私が兄として付き添ったのは、家族として傍にいて欲しいということだ。 一人じゃ不安だから、と。 最近、人混みに出ると発作的にあれが出るから、と。 みんな彼女を励まそうと近づき、その唇が戦慄しているのを見た。 「みんな、死ね」 それは、部屋全体の喧騒を、 一瞬だけ凍りつかせた―――ように私には感じられた。 実際には、他の誰も気付かなかった。 ただ私と、隣にいた親友の佐藤だけが、 その呪いの波動を鼓膜で捉えた。 その三日後、妹は自室の鴨居にロープをかけた。 遺書はない。ただ、彼女が愛用していた、 スケッチブックの最後のページには、 黒いクレヨンで塗りつぶされた円が描かれ、 その中心に小さな針の穴が開いていた。 警察は鬱病による自殺と結論づけた。 それから一年。 あの集会にいた二十人の内、六人が死んだ。 ある者は雨の国道でスリップし、ある者は原因不明の心不全で。 死の形態はバラバラだった。病死。転落死。溺死。 だが、共通しているのは、誰もが死の前に、 「誰かに名前を呼ばれた気がする」と言い残していたことだ。 「最近、夜中に誰かが名前を呼ぶんだよね。夢かな」とか、 「変な声が聞こえる。女の声で、俺の名前を呼ぶんだ」とか、 「ねえ、幽霊っていると思う? なんか最近、誰かに見られてる気がするの」と・・・・・・。 重箱の隅をほじくればこんなのはよくあるミスリードだ、 死ぬ前は誰でも多少はおかしなことや話を言ったりするものだが、 六人ともそういうエピソードを聞くとなるとやはり異常だ。 死亡率二七.三パーセント。 同年代の年間死亡率の約三百倍。 今、私の手元には、遺品となった妹のポートレートがある。 七五三の時の、無邪気な笑顔。 しかし、昨日から、写真の妹の瞳が、わずかに動いている。 彼女の視線は、部屋のどこを見るでもなく、常に私を追っている。 写真の表面に、細かな亀裂が走り、それが唇の形を成していく。 私は耳を塞ぐ。だが、声は内側から響く。 「・・・・・・ね」 あと一週間で、あの同窓会から一年と二週間が経つ。 また一人、同窓会メンバーの訃報が舞い込んだ。 七人目だ。自宅マンションの浴室で溺死。 発見したのは、訪問した母親。 不可解なのは、浴槽に水が張られていなかったことだ。 空の浴槽の中で、彼女は溺死していた。 肺には、大量の水。 しかし、浴室の何処にも、それだけの水があった形跡はない。 遺体の口からは、黒い髪の毛が数本、発見された。 DNA鑑定の結果―――それは、一年前に死んだ、私の妹のものだ。 呪いはまだ続いている 妹の怨念か、それとも妹を通じて何か別のものが行使している力か、 想像するだけで震えが止まらない。 昨日、妹の夢を見た。 夢の中で、妹は同窓会の会場に立っていた。 二十人全員が、円形に並んで座っている。 そして妹が、一人一人の名前を読み上げていく。 「佐々木真理、田中浩二、山本由美・・・・・・」 名前を呼ばれた者は、その場で崩れ落ちる。 そして、最後に残ったのは、私だった。 妹が私を見る。 その瞳は、生前の優しさを失い、ただ空虚な闇だけがあった。 「・・・・・・にいちゃん」 私は目を覚ました。 時計を見る。午前三時二十分。 妹が死んだ、まったく同じ時刻。 部屋の隅、引き出しの中から、写真が光っている。 青白い、蛍光灯のような光。 私は、もう眠れない。 あと一週間。 次は、誰だろう。 いや、現実逃避はよせ、次は、私なのだろう。 4 その団地は、高度経済成長期の熱狂が冷め切った後の、 巨大なコンクリートの墓標のようだった。 築四十二年三ヶ月の公団住宅。総戸数三百二十戸。 外壁は灰色のコンクリート。 ところどころに黒い黴が生え、雨水の流れた跡が、 まるで涙の痕のように縦に走っている。 深夜二時。私の寝室から玄関へと続く十メートルの廊下は、 昼間の明るさが嘘のように奥行きを歪ませている。 天井の蛍光灯は寿命が近いのか、微かな放電音とともに、 網膜を刺すような不安定な明滅を繰り返している。 もう十年以上交換されておらず、 アクリルカバーの内側に蛾の死骸や塵が積もり、 カバーの透明度は、新品時の半分以下だろうか、 光が黄ばんで、病的な色合いを帯びている。 午前二時十七分。膀胱の圧迫で目が覚める。 布団から這い出ると、畳の冷たさが足の裏に直接伝わる。 寝室のドアを開け、廊下へ一歩踏み出す。 右側にクローゼットと浴室の扉が等間隔に並ぶ。 その廊下の突き当たり、 玄関ドアの手前七十センチの位置に、それが立っていた。 最初は暗がりに目が慣れていないだけだと思った。 しかし三秒、五秒と経つにつれ、輪郭が浮かび上がってくる。 人間のシルエット。 玄関のドアの前に、人影が直立している。 大きさは百七十センチほど。 黒というよりは、すべての光を吸い込んで、 周囲の闇よりもさらに深い欠落のような質感。 服を着ているのか、あるいは皮膚そのものがその色なのかさえ、 判別できない。ただ、肩のラインが不自然なほど左右対称で、 彫像のように微動だにしない。 「・・・・・・誰だ」 声を出そうとするが、咽喉が干からびて、音にならない。 影は、反応しない。 私が一歩、廊下へ踏み出すと奇妙なことが起きた。 足は確かに前へ進んでいるのに、 影との距離がまったく縮まらないのだ。 エッシャーのだまし絵のように、 廊下が私の歩みに合わせて無限に延長されている。 あるいは、私が歩く速度と完全に同期して、人影が後退している。 二歩、三歩。スリッパがクッションフロアを擦る音だけが空虚に響く。 廊下の壁に貼られた古い壁紙の継ぎ目が、 私の歩みに合わせてゴムのように伸びている。 空間そのものが、私が近づく速度と全く同じ速度で、 奥へと引き延ばされている。 私は立ち止まり、肺の空気をすべて吐き出すようにして凝視した。 影は動かない。しかし、生理的な限界で一度だけ瞬きをした、 その刹那。 影が、三センチ右にズレた。 歩いたのではない。映像のコマが飛んだように、 存在そのものが位置を書き換えられたのだ。 影は移動した。 いや、移動という表現は正しくない。 位置情報が更新された、という方が適切だ。 まるで、ビデオゲームのキャラクターが、ラグでワープするように もう一度、瞬きをする。 今度は五センチ、こちらへ近づいている。 蛍光灯がジジ、ジジジッと断末魔のような音を立てて、 激しく点滅し始める。ストロボ光のような白い閃光の合間に、 影の輪郭が網膜に焼き付く。 右、左、前、右。 瞬きのたびに、影は不規則な軌道を描きながら、 確実に、物理的な歩行を無視した速度で迫ってくる。 しかし常に正面を向いたまま。顔の詳細は見えないが、 こちらを見ているという強烈な感覚は鋭く伝わる。 どろりとした負のエネルギーとなって渦巻き、 夜が終わらない。 私は後ずさり、寝室のドアを閉めようとした。 その時、最後に見た影の姿は―――私のすぐ数メートル先、 廊下の真ん中で、首だけを真横に九十度折り曲げていた。 空虚なる暗黒と無限の恐怖を防ぐだけの脳内へと、 体験の糸が織り込まれた、私の口から、 蚊の鳴くような声が洩れる。 5 放課後の理科準備室。埃の舞う斜陽の中で、 教室の全生徒のスマートフォンが一斉に、 葬送の鐘のような重苦しいバイブレーションを鳴らした。 ロック画面に通知が表示される。 ブブブブブ・・・・・・。 三十二台のスマートフォンが、完璧に同期して振動する。 机の上で、筆箱の中で、ポケットの中で。 その振動が共鳴し、教室全体が微かに震えているように感じられる。 『鬼ごっこ開始』 『ルール:鬼から逃げるか、見つかるか』 『鬼との距離:50m』 『制限時間:30分』 画面には、地図アプリを模した無機質なインターフェース。 自分を示す青い点と、獲物を狙うように点滅する赤い点。 地図は、我が校、創立五十年、生徒数約八百人の校舎の平面図だ。 精密に描かれている。教室の配置、廊下の幅、階段の位置まで正確だ。 「冗談だろ?」 誰かが笑おうとしたが、その表情はすぐに凍りついた。 画面の赤い点が、動き始めたからだ。 ゆっくりと、しかし確実に、我々のいる理科準備室に向かって。 『鬼との距離:45m』 「逃げるぞ!」 誰かが叫んだ。 廊下に生徒が溢れる。 椅子が倒れる音。机が軋む音。悲鳴。 他のクラスの生徒達も、同じように逃げ惑っている。 全校生徒、約八百人が、同時に。 階段を駆け下りる足音が雷鳴のように響く。 クラスメートが一斉に出口へ殺到する。 階段を駆け下りる足音が雷鳴のように響く。 押し合い、へし合い。 誰かが転倒しかける。 しかし誰も助けない。 皆、自分が生き延びることで精一杯だ。 しかし―――正門は閉まっている。 太いチェーンと南京錠で施錠されている。 裏門も同様。 フェンスは三メートル以上あり、 しかも上部には有刺鉄線が張り巡らされている。 乗り越えるのは不可能だ。 それでも校門へ走った連中が、目に見えない巨大な壁に跳ね返され、 鎖で施錠された門の隙間から外へ出ようとした腕が、 まるでシュレッダーにかけられたように虚空で消失した。 「うわあああああ!」 サッカー部のキャプテンが、絶叫する。 彼の右腕が、肘から先、完全に透明になっていた。 触れることはできる、動かすことはできる。 しかし視覚的には完全に透明。 これが鬼ごっこなのだと全校生徒は理解した。 鬼との距離:30m。 姿は見えない。しかし、廊下を走る誰かの悲鳴が、 物理的に断絶される音が聞こえる。私は逃げなかった。 いや、逃げる意味を見出せなかった。 だが、心の何処かでは興味があったのかも知れない。 何故このゲームが始まるのか、誰が仕掛けているのか。 そして最も重要なのは、捕まったら本当にどうなるのか。 私は体育館裏の倉庫へ向かった。 体育館裏の倉庫は、普段は使われていない。 古い跳び箱、破れたマット、 壊れたバスケットゴールが雑然と積まれている。 ロッカー室の隅、古い跳び箱の陰に身を潜め、 スマートフォンの画面を凝視する。 10m・・・・・・5m・・・・・・3m。 鼻を突くのは、古い鉄錆と、濡れた犬のような獣臭。 カチリ、とドアノブが回る。 誰もいないはずの空間から、床板がギィと悲鳴を上げる。 一歩。倉庫の入り口。 二歩。棚の前。 三歩。跳び箱の横。 何かが、そこに立っている。 一メートル。 しかし、その足音がおかしい。 一歩ごとにチャプンという、水溜まりを踏むような音が混じる。 息を殺す。 心臓の鼓動が耳元で鳴り響く。 ドクン、ドクン、ドクン。 一分間に百五十回以上。 限界に近い心拍数。 鼓動がばれるのではないかと恐怖する、一瞬の静寂。 その瞬間、私の右腕に、冷え切った湿った感触が触れた。 激痛はない。ただ、圧倒的な喪失がそこにあった。 肘から先が、まるでデジタル画像の消しゴムツールで消されたように、 完全に透明化していた。 骨も血管も、切り口さえも見えない。 ただそこにあるはずの空間が、背景の壁を透かしている。 触れば確かに自分の肉の弾力がある。 しかし、視覚的にはこの世界から切り離されている。 少しして、スマホが震える。 『捕獲完了』 『鬼ごっこ終了。捕まった者:12名』 『次回の鬼ごっこは未定』 教室に戻ると、すでに半数以上の生徒が戻っていた。 各自、身体の一部が透明化している。 耳、指、足首、髪の一部―――透明化の部位は様々だ。 誰もそれを隠そうとしない。 もう日常の一部になってしまっている。 いや、一回目だが、皆、理解していた。 遅いか早いかだ、と。 これは、終わらない、と。 数日後、再び通知が届いた。 『鬼ごっこ開始』 絶望は、二度目には慣れへと変わる。 既に半身を失いかけている私は、体育館の裏で死を待っていた。 、 透明な腕は冷たく、時折痺れる。 夢を見ればその部分が別の生物になっているのを見る。 透明な部分が、夢の中では黒い触手になっている。 それが、私の意志とは無関係に蠢いている。 そんな自分のもとへ、クラス委員長の美咲が現れた。 身長百六十センチ、肩まで伸びた黒髪、成績優秀、 スポーツ万能、生徒会副会長―――は、完璧な微笑を浮かべていた。 彼女の身体には、透明化した部分が一つもない。 「田村くん」 「・・・・・・美咲」 「見つけた」 彼女は完璧な微笑を浮かべ、私の透明な右手を正確に掴んだ。 その瞬間、血流が戻るような熱さとともに、右腕が見えるようになる。 皮膚の色、毛細血管、爪の半月、すべてが元通り。 自分の右手が視覚的に認識できる。 「君を、ずっと見ていたよ。誰にも気付かれない君を―――」 彼女の言葉に救いを感じたのも束の間。 彼女のスマホが、悪魔の宣告を告げた。 『あなたが次の鬼です』 彼女の笑顔は崩れない。むしろ、陶酔したように深まっていく。 「ねえ、わかる? 私は君を、最初の『生贄』にするために治したの」 「え・・・・・・」 「このゲーム、仕掛けたの私なんだ」 彼女の瞳が、異様な光を帯びる。 「面白いでしょ? みんなが必死に逃げる姿。 透明になっていく姿。絶望する姿」 「お前、一体誰なんだ」 美咲―――あるいは美咲のふりをした何者か、 いやそもそも、美咲なんていう存在自体がいないかも知れない、 超越的な・・・・・・。 彼女は答えず、自分に酔ったように喋り続ける。 「最初は実験だったの。どこまで人は恐怖に耐えられるか。 でも、今は違う。これは芸術なの」 彼女の指が私の胸に触れた。 その瞬間、私の全身から色が剥ぎ取られた。 肌の色が消える。 服の色が消える。 髪の色が消える。 すべてが硝子のように透明になる。 いや、硝子よりも透明だ。 完全に、この世界の視覚情報から削除された。 透明になった私は、叫び声を上げたが、それは音にすらならなかった。 皆、教室に戻っていく。私は追いかける。 しかし廊下ですれ違う生徒たちは、誰一人として私に気付かない。 「おい・・・・・・」 肩を掴もうとする。 しかし、私の手は相手の肩をすり抜ける。 まるで、私が幽霊になったかのように。 いや、違う。 幽霊なら、まだ存在している。 私は、存在そのものが消されたのだ。 視線が私を通り過ぎ、遠くを見ている。 教室に戻っても、誰も私を見ない。 私の席には、すでに別の誰かの荷物が置かれている。 美咲は友人と笑いながら、私のすぐ横を通り過ぎる。 教室の後ろの壁に、出席簿が貼られている。 クラス名簿。 三十二人の名前が書かれている。 私は、自分の名前を探す。 だが、名前は、ない。 最初から、存在していない。 私は、最初からこの世界の解像度に含まれていなかったのだ。 数か月が経過した。 今、この教室には、透明な生徒が五人いる。 美咲だけが、私達全員を認識している。 彼女は、私達をコレクションと呼ぶ。玩具だ。 夜、彼女は私たちに話しかける。 「今日は誰を消そうかな」 私達は、答えられない。 声が、ないから。 6 全寮制の男子校。そこは、教育という名の隔離施設。 監獄、陸の孤島というに相応しく、最寄りの自動販売機まで五・二キロ、 コンビニまで二十三・四キロの距離にある。 山間部に位置し、周囲は深い森に囲まれている。 テレビの受信は不安定で、インターネット回線は寮長室にのみ設置された、 一台のPCからしか接続できない。 生徒の携帯電話は入学時に没収され、週末のみ三時間限定で返却される。 娯楽に飢えた中学二年生の僕達は、禁じられた境界線を越え、 土曜日の午後二時。管理の目をくぐり、寮の裏口から森へと潜入する 湿った腐葉土の匂い、日光を拒絶するほどに密生した羊歯植物。 斜面を滑り落ちるようにして辿り着いた窪地。 そこに、それはあった。 六つの石塚。 高さ二メートル。自然石を積み上げただけの無骨な塔。 それが、不自然なほど整然と、 測量されたかのようにグリッド状に配置されていた。 各塚の高さは百八十センチから二百十センチの範囲。 石は川原で拾ったような丸みを帯びた石ではなく、 角が削られた加工石。表面には苔がびっしりと生え、 緑色の絨毯のように覆っている。 築造年数は少なくとも五十年以上、おそらく百年は経っていると直感した。 墓石ではない。銘もない。ただ、気の遠くなるような年月をかけて、苔 が石の隙間を埋め尽くし、 一つの巨大な生きた石の臓器のように見せている。 「おい、これ・・・・・・」 一人が声を震わせる。僕は足元の濡れた木の根を避けようとして、 バランスを崩した。咄嗟に掴んだのは、 一番手前の塚から生えていた、白く細い枝。 ボキッ、と乾燥した骨が折れるような音が響いた。 それは植物の枝というにはあまりに硬く、 折れた断面からは、少し粘り気のある透明な樹液が滲み出てきた。 樹液の粘度は、蜂蜜よりも少し緩い程度。 指に付くと、ベタベタとした不快な感触が残った。 甘酸っぱい、腐敗し始めた果実のような匂いがする。 「やばい・・・・・・」 僕が呟くと、みんなも口々に何か言いながら肯いた。 「早く帰ろう」 しかし、僕は折れた枝をポケットに入れた。 何故そんなことをしたのか、今でも分からない。 何かの証拠として持ち帰りたかったのかも知れない。 その夜。 寮の消灯時間を過ぎ、完全な静寂が訪れたはずの廊下から、 音が聞こえ始めた。 コツ、コツ、コツ―――硬い石が、リノリウムを叩く音。 最初は一人。それが二人に増え、三人に増える。 やがて、その音は私の個室の中で鳴り始めた。 ベッドのすぐ脇。誰もいない空間。 しかし、床が重みに耐えかねるようにギシギシと軋む。 真下の階からは、狂ったように壁を叩く音が聞こえる。 ベランダの窓硝子には、湿った何かが這い上がる、 ヌチャ、ヌチャという生理的な不快音がまとわりつく。 巨大な蛞蝓だろうか、想像力は暴走する。 天井からは、巨大な獣が屋根瓦を踏み潰すような、 重苦しいベコッという音が降り注ぐ。 姿は見えない。だが、部屋の中の密度が明らかに変わっている。 空気が重い。 呼吸が苦しい。 まるで、酸素濃度が下がったかのような。 いや、違う。 空気中に、何か別のものが混ざっている。 湿気、土の匂い、腐敗臭。 森の、あの窪地の匂いだ。 私は卓上ライトをつけ、震える手でMDプレイヤーを再生した。 大音量で流れる音楽さえも、その気配を掻き消すことはできない。 「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい・・・・・・」 私は念仏のように、折った枝への謝罪を繰り返した。 両手を合わせ、ベッドの上で正座する。 三十分が経過するごとに、足音が一つずつ消えていく。 三人、二人、一人・・・・・・。 最後に、私の耳元で、 「―――次は、お前だ」 という、土が崩れるような掠れ声が聞こえた気がした。 翌朝、他の寮生は誰もその音を聞いていなかった。 塚へ行った五人のうち、枝を折ったのは僕だけだった。 以来、僕は森の近くを通るたび、 自分の骨の奥からボキッというあの時の感触が、 疼くように蘇るのを感じている。 そして時折、夢の中であの塚を見る。 石塚が、ゆっくりと呼吸しているように膨らんだり縮んだりする夢。 そして最近、気付いたことがある。 私が折った枝のあった塚だけ、苔の生え方が違う。 他の塚は均一な緑だが、あの塚だけは中心部が茶色く枯れている。 まるで、傷ついた生き物のように。 7 深夜三時。世界が死に絶えたような静寂の中、 六畳間のアパートでブラウン管テレビだけが、 主人の消し忘れによって発光し続けている。 放送終了後の信号途絶、画面いっぱいに広がるのは、 白と黒の粒子が無秩序に踊る画面。 ザーッというノイズ音が、部屋の静寂を埋める唯一の音だ。 騒音計で測ればおそらく四五デシベルほどだろうか、 人のささやき声程度の音量だが、 深夜の静けさの中ではけたたましく響く。 脳の深部を削るようなホワイトノイズが鼓膜を圧迫する。 布団に入り、意識が混濁し始めたその時、 画面の奥行きが変質した。 最初は、パレイドリア現象、 ランダムな点列に意味を見出す脳の錯覚だと思った。 しかし、ノイズの明滅は次第に指向性を持ち始める。 白と黒の粒子が、ある一点を境に激しく渦を巻き、 そこに肉感的な起伏が形成されていく。 現れたのは、女の顔だった。 年齢は二十五歳から三十歳の間。 長い黒髪が肩にかかり、顔の輪郭は細面。 左右非対称の巨大な眼球が大きく見開かれ、 瞳孔の部分が砂嵐の黒い粒子の集中によって表現されている。 鼻筋はなく、ただ二つの暗い穴が開いている。 口は固く結ばれているが、 その唇の端からはノイズが液状になって滴り落ち、 顎のラインを伝い、画面の下へと消えていく。 それは平面の映像ではない。ブラウン管の硝子の内側に、 誰かが顔を押し付けているような立体感。 鼻の頭の部分が、わずかに前に出ている。 頬の部分が、少し凹んでいる。 顔は画面の左下、全体の十五パーセントほどの領域に存在する。 一秒間だけ鮮明に現れ、その後ふわっと消散する。 まるで水面に浮かぶ油膜が光の加減で現れるようだ。 一秒後、ノイズが激しく爆ぜ、顔は消えた。 心臓が肋骨を叩く。 吸い寄せられたように立ち上がり、テレビへ近づく。 距離は三メートルから一メートルにまで縮める。 画面の表面には静電気で吸い寄せられたホコリが微かに輝いている。 五センチの距離。オゾン臭と静電気のパチパチという音が皮膚を刺す。 ザーッ、ザーッ、再び、粒子が収束する。 砂嵐のパターンが変わる。白黒の粒子の密度が変化し、 今度は画面中央に、より大きく、より鮮明な顔が浮かび上がる。 前回より近い。画面の四〇パーセントを占め、細部まで分かる。 左目の下にある小さなほくろ。眉の形が少し不揃いなこと。 唇の右端がわずかに上がっていること。 その目が、明らかにこちらを見ている。 いや、正確には存在を認識している。 画面の向こう側から、この側の世界を覗き込んでいるような、 次元を跨いだ視線。 画面いっぱいに広がった眼球。 白目の部分は無数の黒いノイズで充血し、瞳孔の奥には、 この部屋の、私の背後の景色が映り込んでいる。 瞳孔の中に、部屋が映っている。 本棚、安物の組み立て式。 窓、カーテンは閉まっている。 そして、私自身。 瞳孔の中の私は、テレビの前でしゃがみ込んでいる。 しかし、角度がおかしい。 実際の私は、テレビの正面にいる。 しかし、瞳孔に映る私は、 斜め四十五度の角度から撮影されているように見える。 まるで、部屋の隅、天井近くにカメラがあるかのような視点。 私は悲鳴を飲み込み、主電源を力任せに押し込んだ。 画面が中心に吸い込まれるようにして消え、 部屋は完全な暗黒に包まれる―――はずだった。 消灯したはずのブラウン管の表面には、窓からの街灯を反射して、 私の顔がぼんやりと映っている。 しかし、その私の顔のすぐ肩越しに、 もう一つの、砂嵐で構成された顔がこちらを覗き込んでいる。 しかし、今度は砂嵐ではなく、もっと明瞭に見える。 いや、違う。 やはり砂嵐で構成されている。 しかし、電源が切れているはずのテレビの画面に、 どうして砂嵐が表示されているのか。 その砂嵐は、画面の中ではなく、 画面の表面に、浮き上がっているように見える。 まるで、ホログラムのように。 位置関係から、私の真後ろ、 三十センチほどの距離に立っている計算になる。 首の後ろの毛が逆立つのを感じる。ゆっくりと振り向く。 関節が軋む音さえ聞こえそうなほど慎重に。 だが、振り返っても、背後には冷たい壁があるだけだ。 再び画面を見る。今度は二つの顔が並んで映っている。 私と、あの女性だ。 そいつはゆっくりと口を開け、 その口の中から、白い手が伸びてくるのを見た気がした。 私の耳元に向かって、ノイズの塊を吐き出そうとしている。 8 午前七時、枕元のスマートフォンが冷酷な電子音を奏でる。 アラーム音は、デフォルトのレーダー。 高周波の電子音が、段階的に音量を上げていく。 私、三十二歳の主婦、田中恵美は、重い目蓋を開ける。 『今月の家庭内評価結果』 赤い背景に白い文字。 まるで、警告のような配色。 タップする。 画面が切り替わる。 『あなたの点数:45点』 『ランク:D(改善必須)』 『詳細:家事効率67%、育児参加42%、 収入貢献度31%、配偶者満足度38%』 夫のスマホ画面を覗き込むと、彼の評価は八二点(Bランク) 姑(しゅうとめ)の画面には七九点(Bランク) 息子(小学四年生)のスマホには評価が表示されていない。 子供は評価対象外という規則だ。 『今月の家族内評価確定:45点(Dランク)』 その通知がポップアップした瞬間、隣で寝ていた夫と、 廊下を歩いていた姑が、 まるでプログラムされた機械のように私の寝室へ雪崩れ込んできた。 「四十五点? 先月より八点も下がっているじゃない。 Dランクなんて、この家には不要な不純物よ」 姑の冷たい声。 彼女の表情は無表情。 まるで、壊れた家電製品を見るような目。 夫は私の顔を見ることもなく、手元の端末を操作している。 「時給換算で八百円か・・・・・・今の君を維持するより、 Amazonの『後妻サブスクリプション』に切り替えた方が、 コストパフォーマンスが高い。決定だ」 評価システムは『家庭円満法(改正第3版)』 に基づいて義務化されてから五年になる。 正式名称:「家庭構成員効率化評価システム」 (Family Member Efficiency Evaluation System, FMEES) 導入背景:少子高齢化対策、家庭内労働の可視化、人材の最適配置 すべての成人は月次で評価され、七〇点未満はDランク。 Dランクは―――交換可能とみなされる。 評価基準: A ランク:90点以上(優秀、昇給・ボーナス対象) B ランク:70〜89点(標準、現状維持) C ランク:50〜69点(要改善、警告) D ランク:50点未満(交換推奨) 首の後ろが痒くなる。指で触ると、 皮膚の下に何かが浮き上がってくる感覚がある。浴室の鏡の前で確認した。 首のうなじに、QRコードが浮かび上がっている。 黒い正方形の模様が皮膚の表面に凹凸として現れ、 触るとわずかに熱を持っている。サイズは縦横三センチ。 個人識別コードと紐づけられている。 夫がスマホのカメラをかざす。QRコードをスキャンする音。 「四十八時間以内に約殺者を選ばないと、 自動で最低入札者に約殺されるよ」 画面には購入希望者のリストが表示される。 『時給800円、週6勤務(日曜休)、家事・育児・介護全般対応、 文句なし、年齢32歳、身長165cm、体重52kg、血液型A型』 『時給750円、24時間対応可能、料理特級資格、 保育士免許あり、前科なし、年齢28歳』 『時給700円、元キャビンアテンダント、 英語堪能、美容整形済み、不満一切申し立てません』 夫が提示したリストには、家事代行、介護、 そして生体パーツの再利用を目的とした購入希望者の名前が並ぶ。 唯一、五歳の息子だけが私の震える指を握った。 「ママ、大丈夫だよ。僕が大人になったら買い戻してあげるから」 子供の評価制度は未実装だ。彼はまだ人間として扱われている。 だが、その瞳に既に、 母親を効率の悪い旧製品として見る諦念が混じっていた。 夫のスマホには次の妻候補のプロフィールが表示される。 写真の女性は二十代半ば、整った顔立ちで、看護師。 評価点数は九十二点(Aランク) 自己紹介文には、家庭を幸せにするのが生き甲斐でと書かれ、 どんな要求にも笑顔で応えます。前の家庭では評価Aランクでしたが、 夫の死亡により再配置希望。 写真は三枚。 正面からの笑顔 エプロン姿で料理をしている様子 子供を抱いている様子(前の家庭での写真) 「こっちの方が良さそうだな」 夫が指でスクロールしながら言う。 「料理も上手そうだし、収入も安定してる」 私は指定された段ボール箱をリビングに広げる。 サイズ:縦八十センチ、横六十センチ、高さ六十センチ。 内側には緩衝材のプチプチが丁寧に敷き詰められている。 プチプチの気泡の直径は約一センチ。 厚さは約五ミリ。 箱の内側には、換気用の小さな穴が開けられている。 直径三ミリの穴が、十センチ間隔で配置されている。 「入って」 夫の声には感情がない。 まるで、不用品を処分するような口調。 私は自分の意志でその中に入り、膝を抱えて丸くなる。 段ボールの底は硬い。 膝が当たって痛い。 姑がガムテープを引き出すバリバリという音が、 私の存在を社会から封印する弔鐘のように響く。 発送。搬送中、箱が揺れる。 トラックのエンジン音、高速道路を走る音。 時間の感覚がわからなくなる。二時間か、四時間。 咽喉が渇く、トイレに行きたくなる。 しかし、我慢する。 ガムテープが剥がれる、ビリッという音がして箱が開かれた。 そこは、故郷の実家だった。 母が泣きながら、私の首のQRコードを指でなぞる。 「おかえり。私もね・・・・・・去年、お父さんに買い戻されたのよ」 母の首には、消えかけたコードの跡と、古い火傷のような痕跡があった。 「私達は、常に誰かの『満足度』で形を保っているの。 さあ、次はあなたが、息子を買い戻す番よ」 私は自分の腕に貼られた、 『中古:良品』というラベルを剥がすことができないまま、 現在、時給九五〇円の深夜工場で働き始めて三ヶ月。 毎月十五万円ずつ貯金している。 心を入れかえて働いた。 息子が十八歳になるまでにあと十年。 必要な金額は―――最低でも五百万円。 9 それは、日常に紛れ込んだ小さなバグから始まった。 分譲マンションの集合ポスト。 通常なら、郵便物、 請求書、チラシ、ダイレクトメールが入っている。 私宛の投函口に、開封済みのポテトチップスの袋が、 ねじ込まれるようにして入っていた。 湿気てしんなりし、指紋らしき油の跡が袋に付いている。 酸っぱい、男性の体臭が微かにしてゴミ箱に捻じ込んだ。 翌日は半分に折れた板チョコ。 噛み跡がある。人間の歯型だが、 前歯が一部欠けているような不揃いな印象。 チョコレートの表面には、唾液の跡が乾燥して、 白く変色している。 その次は、噛み跡のついた飴玉。 表面が溶けて、ベタベタしている。 そして、髪の毛が一本、 ゴキブリの触覚のように付着している。 「子供の悪戯にしては、粘着質だわ」 そう夫に漏らした数日後、彼の顔から血の気が引いた。 「ポストの前に、いたんだ」 「誰が?」 「・・・・・・人形みたいな女。いや、男かもしれない。 怪人だ。化け物だ。妖怪だ。おぞましきナウマンゾウだ。 フリフリの、ピンク色のドレスを着て、 金髪の縦ロールのウィッグを被って。僕が近づくと、 ガクガクと不自然な動きで階段の陰に消えたんだ」 気色悪かったが、まだ深刻ではないと思っていた。 警察に不審者がいると申し出たが、 見回りを増やしてみますと体裁上言ったが殆ど何の変化もなかった。 夫の言葉が思い出される。 「目が合った瞬間、ニヤッと笑ったんだ。 でも、その笑い方が―――機械的で、 まるでマネキンが笑っているようだった・・・・・・」 ある平日の昼。私は風邪で会社を休み、一人でリビングにいた。 頭痛、咽頭痛、倦怠感。 薬を飲んでソファで横になり、テレビを見ている。 玄関のドアノブが、誰かに静かに回されている音がした。 新聞受けの隙間から、何かがシュルシュルと差し込まれた。 それは、汚れた指先。 指が、郵便受けの内側をまさぐり、 何かを探している。 ドアスコープ(魚眼レンズ式)を覗こうとする人影が映る。 しかしレンズが曇っていて詳細はわからない。 ただ、ピンク色の塊が見えるだけ。 「開けて―――開けてよォ! 親友でしょぉ!」 インターホンから響くのは、 地声の低い男の声を無理矢理に裏返したような、奇声。 それからブツブツと独り言が聞こえる。 女性の声だが、声変わりした少年のようなかすれ声。 私はドアスコープを覗き込んだ。 そこにいたのは、怪人だった。 頬紅を塗りたくった脂ぎった顔。左右で色の違うカラコン。 巨大なピンクのリボンが、ウィッグの隙間から覗く、 剃り跡のある頭皮にピンで留められている。 チャイムが鳴る。一度ではなく、連打だ。 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン―――十回以上続く。 私は警察を呼ぶべきだと考えられないほどに動揺していた。 「アフロディーテよ! あなたの、たった一人の、アフロディーテよ!」 彼は(あるいは彼女は)、狂ったようにドアを蹴り始めた。 声は明らかに男性の地声を無理に高くしたものだ。 ドアスコープを拭って覗く。 真っ赤なフリフリのエプロンドレス(ヴィクトリアン・ゴシック・ロリータ風) 金髪の縦ロールカツラ(明らかに安物で、つけ際がはがれかけている) 顔は三十代の男性で、髭剃りの跡が青く浮き、 ピンクのリボン(直径二十センチほど)が頭に結ばれている。 化粧は白塗りに赤い口紅、睫毛は付け睫毛が片方だけ剥がれかけている。 まさに夫の言った怪人だった。 「あんなに、あんなに優しくしてくれたのに! ハンカチを返してくれた時の、 あの結婚を誓ったような眼差しを忘れたの!?」 思い出した。一ヶ月前、駅のホームで。 派手なハンカチを落とした人に、落としましたよと声をかけた。 あの時、ドレスの裾を摘んで深々とお辞儀をした、あの異様な人物。 親切は、彼の脳内で運命の恋に変換され、 ストーキングという名の友情の確認へとエスカレートしていた。 常人には理解不能な飛躍。しかし彼の中では完全な論理だったのだろう。 完全に妄想の世界に生きている人物だ。危険度が一気に上昇した。 「帰ってください! 警察を呼びます!」 私が叫ぶと、廊下の喧騒はぴたりと止まった。 数秒の沈黙の後。 「ウオオオオオオォォォッ!!!」 野獣のような咆哮が響き、バタバタと階段を駆け下りる音が遠ざかる。 翌朝、ドアを開けると、そこには内臓を抉られた十数匹の蛙の死骸が、 ハート型に並べられていた。 ドアスコープのレンズには、べっとりと、 人間の唾液と脂で汚れた唇の跡が残っていた。 私はその日のうちに引っ越しを決めたが、 夫を説得するのに十日ほどの時間が必要だった。 「引っ越し費用がかかる」 「今のマンションは便利だ」 「気にしすぎじゃないか」 しかし、私は譲らなかった。 交渉材料として蛙の死骸の写真を見せ、 ドアスコープの唇の跡を見せる。 夫は、ようやく納得した。 十日後、大家に事情を説明すると、 同情してくれて違約金を払わなくて済んだ。 新しい住所は今のところ、実家と親しい友達以外教えていない。 その後の彼の行方は不明だ。警察に相談したが、 「実際に危害を加えられていない限り動けない」と言われた。 今でも駅でフリルの服を着た人影を見るたびに、 肺が凍りつくような感覚に襲われる。 彼は、今も次の親友を探して、 ハンカチを落とし続けているのかもしれない。 集合住宅の郵便受けを見ると、無意識に警戒してしまう。 あのピンクのドレスが、突然現れるのではないかと。 10 六月の裏山。 雨上がりの湿った熱気が、杉の葉を透過する光を濁らせている。 私はハイキングコースの整備された砂利道を外れ、羊歯が脛を打つ、 細い獣道へと迷い込んでいた。 ハイキングコースは幅約一・五メートル、 両脇にロープが張られている。 しかし、私は珍しい野鳥を見つけてコースを外れた。 獣道というより、鹿の通り道のような細い踏み跡を辿っていた。 杉林の中に入ると、気温が三度ほど下がる。 薄暗い。杉の木々の間隔はほぼ均等で、 三メートルおきに植林されているのが分かる。 人工林だ。木漏れ陽が斜めに射し込み、地面には杉の葉が積もり、 踏むとふかふかと音を吸収する。 だが異常は静かに忍び寄ってくる。 いつのまにか、そのテリトリーに入ってしまったのだ。 ふと、周囲の空気が重苦しい指向性を帯びたことに気付き、 私は足を止めた。 異常だった。 視界に入るすべての杉の巨木が、まるで巨大な重力に引かれるように、 北東の方角に向かって傾斜しているのだ。 風はない。下草の葉一枚すら揺れていない静寂。 しかし、数トンはあろうかという大樹の幹が、 根元からミシミシと音を立てるようにして、 一点を見据えて傾いている。 それは成長の癖などという生易しいものではなかった。 木々はそれを見ているのだ。 あるいは何かから逃げようとしているかのように、 一方向へと傾いている。 地面を這う蔓草も、毒々しい斑点を持つ茸も、 岩にへばりつく苔の毛足までもが、 すべて同じベクトルを指し示している。 この森において、その方角を向いていないのは、 中心に立ち尽くす私一人だけだった。 森全体が、私の存在を無視している。 私を捕食しようとしているのではない。 ただ、森のすべての生命が、北東の奥にある何かに意識を奪われ、 私は視界の外に追いやられた余計な異物に過ぎないのだという、 疎外感と安堵が入り混じった根源的な孤独感。 蜘蛛の巣も観察する。円網を張る蜘蛛の巣もまた、 すべて北東方向に流れている。 糸の張り方が非対称で、北東側に重心がある。 鳥の囀りが、断ち切られたように止まった。 四十雀の囀り、遠くの鴉の声、すべてがぴたりと止まる。 代わりに、遠くから音が聞こえてくる。 胸が締め付けられ、胃が重くなり、眼球が圧迫される感覚。 それは足音でも、風の音でもない。 巨大な針で空間を縫い合わせるような、空気の圧縮音。 ――ズ、ズズ・・・・・・。 木々の傾斜が、さらに深くなる。 まるで、近づいてくるそれに道を譲るかのように、 あるいは最敬礼をするかのように。 内臓に響く。 心臓の鼓動が乱れる。 不整脈。 動悸。 私は恐怖のあまり、泥を撥ね飛ばしながら、 木々が指し示す方向とは真逆の方向へと駆け出した。 北東とは逆の方向―――南西へ。 獣道を外れ、藪を掻き分けながら枝が顔を切り、蜘蛛の巣が張り付く。 しかし振り切らなければならない。 振動は強まる。地面が微かに揺れている。小石が跳ねる。 後ろを振り返る勇気はない。ただ走る。二十分間、休まず走り続ける。 ようやくハイキングコースに出る。 人工的な木道が見える。振動は突然止む。 鳥の声が戻る。四十雀が何事もなかったように囀り始める。 私は木道の手すりに掴まり、息を整える。服は汗でびっしょりだ。 振り返る。森は普通の森に見える。 しかしあの方向感覚は忘れられない。 帰宅後、地図と方位磁石で確認する。 あの場所の北東三十八度の延長線上にあるものは―――何もない。 ただの更地だ。市の資料を調べると、 そこは戦前まで神社があった場所だとわかる。 一九四五年に火災で焼失し、再建されなかったという。 木々は、消えた神社の方角を見つめ続けていたのか。 それとも、神社が消えた原因を、今も見つめているのだろうか。 11 自閉症の息子、ハルキは時折、 この世界のバグを見つけたかのように、 誰も知らないルールを口にする。 「ママ、あの箱(電子レンジ)はね、時間を巻き戻すボタンだよ。 一分を超えたら、世界は逆様に流れるんだ」 「何を言ってるの?」 「一分超えたら、世界が戻る。ぼく見たんだ」 黒目がちの大きな瞳。 焦点は、やや定まらない。 しかし、嘘をついているようには見えない。 だが、私はいつもの空想だと聞き流し、 スーパーで買った半額の弁当をターンテーブルに乗せながら考える、 息子は常にこんな独自の理論を展開する。 宇宙人が地下に住んでいるとか、 テレビのニュースキャスターが彼にだけメッセージを送っているとか。 この芸能人、悪い人だとか、あの人もうすぐ死ぬみたいだよ、とか。 そして、時々、それが当たる。 偶然か、予知能力か。 判断がつかないし、正直言うと、興味もない。 私は疲れていた。専業主婦として、一日中彼の世話。 療育センターへの送迎、学校との連絡、突然のパニックへの対応。 夫は仕事で忙しく、ほとんど家にいない。 勤務時間は十二時間。 話し合いが必要だった。 心の支えが必要だった。 この日も、私は限界に近かった。 加熱時間は一分三十秒。 内部でオレンジ色の光が灯り、 弁当がゆっくりと回転を始める。 チン、小気味良い音が鳴り、扉を開ける。 何かがおかしい。キッチンの窓から射し込む日光が、 夕方の橙色から、昼間の白々とした光に戻っている。 壁の時計を見れば、針は一時間前の位置を指していた。 「・・・・・・え?」 ハルキが、曇りのない瞳で私を見て微笑んでいた。 「一分三十秒で一時間戻るんだ」 確率的に、すべての時計が同時に狂うことはまずない。 しかも正確に一時間戻るなど。 数日後。育児と仕事のストレスが限界を超え、 私はハルキの些細な粗相に、獣のような怒声を浴びせてしまった。 下らないことだ、こんなのよくあることだ、 食事中に突然叫び出し、皿を床に投げつけた。 野菜を拒否する。特に、緑色の野菜。 視覚的な刺激が強すぎるらしい。 でも栄養バランスを考えて作ったのに。 「いい加減にしなさい! あなたさえいなければ!」 言ってはいけない言葉。 母親として、絶対に言ってはいけない言葉。 しかし、疲労が理性を破壊した。 泣き叫び、部屋に引きこもる息子。 重苦しい後悔。 私は、吸い寄せられるように電子レンジの前に立った。 電子レンジを見る。あの時、本当に時間が戻ったのか? もし本当なら・・・・・・。 実験する。一分三〇秒セット。 時計を見る、一時間前。 息子が部屋から出てくる。食事中のシーンに戻っている。 今度は優しく言う。 「野菜も食べようね。身体にいいし、食べてくれたら、 夜は美味しいデザートつけちゃう」 彼は渋々ながらも食べ始める。 しかし十分後、また同じことで怒ってしまう。 パターンは変わらない。時間を戻しても、 私の感情のコントロールは変わらない。 五回、六回と繰り返す。毎回同じ結果。 時間を操れても、自分を変えられない無力感。 疲労が絶望へと熟成された。 「息子が生まれる前に戻れば、すべてやり直せる」 その思考は、どす黒い快楽となって脳を満たした。 自閉症の息子がいない世界。普通の生活。 夫とのデート。仕事の復帰。すべてが手に入る。 恐怖を感じる。母親として、いや、一人の人間として、 そんなことを考えるのは罪深い。しかし疲労が理性を蝕む。 睡眠時間は一日平均四時間。 自由時間はほぼゼロ、社会的交流も、ほぼゼロ。 孤立、疲労、絶望の三重奏。 「・・・・・・」 電子レンジのタイマーを、限界まで回す。 最大設定は九十九分九十九秒。一時間四十分弱。 これで何年戻れるかわからない。 計算すると、一分三〇秒で一時間だから、 九十九分九十九秒では約六十六時間、つまり二日半強。 これを繰り返せば―――。 ハルキが部屋から出てきて、泣きながら駆け寄る。 「ママ、駄目! それをやったら、箱が死んじゃう!」 彼は何かを知っている。この操作の危険性を。 彼の瞳には、本物の恐怖がある。 しかし私は止まれなかった。 彼を突き飛ばし、スタートボタンを押し込んだ。 マグネトロンが、地獄の唸り声を上げる。 内部のターンテーブルが異常な速度で回転し、 電子レンジの扉の隙間から、青白い光が漏れている。 チェレンコフ放射のような、不自然な青白い光。 キッチンの空間が飴細工のように歪み、光が逆流し、 息子の姿が粒子となって分解されていく。 「ママ・・・・・・」 最後の言葉。 成功した。 レンジが止まった時、部屋には静寂だけがあった。 息子の玩具も、写真も、存在した痕跡すら消えている。 私は自由だ。 だが、外の景色を見て、私は絶叫した。 窓の外、羽ばたいていた鴉が空中で静止している。 風に揺れていた洗濯物も、時計の秒針も。 私は時間そのものを、過負荷で焼き切ってしまったのだ。 開かなくなったレンジの扉の奥で、まだ温かい弁当だけが、 永遠の一秒を繰り返して回り続けていた。 電子レンジの表示は戻っている。 私はようやく母親に戻った。 一度失ってみなければ分からない。 「戻して・・・・・・ハルキを戻して・・・・・・」 泣きながら電子レンジを叩く。しかし無反応。 次の瞬間、電子レンジの表示が変わる。 『-00:01』と表示される。マイナス時間? そして再びチンという音がし、世界が逆回転する感覚。 時計の針が逆に動き始める。窓の外の鳥が逆方向に飛び戻る。 そしてハルキが現れる。泣いている。 「ママ、怖かったよ・・・・・・」 息子の価値。 息子の存在。 私は力いっぱい抱き締める。 もう絶対に離さない。 しかし時間はさらに巻き戻り続ける。 今度は正しくやる。完璧な母親になる。必ず。 表示は『-30:15』とカウントダウンを続ける。 時間の負債。私は時間から借りたのだ。返済しなければならない。 どのくらいの利息がつくのかは、まだ分からない。 12 登山愛好家の友人、佐々木と登った秋の低山。 天気は快晴、視界良好。気温は八度、風速五メートル。 山頂の展望台から、私達は高性能の双眼鏡で遠くの谷間、 直線距離で約三キロ先の対面斜面を眺める。 色づき始めた紅葉の中に、一点だけ、どす黒い赤が見えた。 鮮やかな朱色。サイズは人間一人分ほど。 周囲には人工物らしきものが散乱している。 テントの残骸か、ビニールシートか。 「赤いジャンパーの人が倒れてる。遭難か?」 直感的にそう判断する。 赤は山での遭難者発見に有効な色だ。 双眼鏡を渡す。彼は三十秒ほど凝視する。顔色が変わる。 「あれ・・・・・・自殺じゃないか」 「え?」 「あの周り、ロープとか散らばってる。飛び降りたのかも」 自殺、あるいは滑落死体。 どちらにせよ、警察に通報しようと地図を広げ、 位置を特定し緯度経度をメモする。 その間、双眼鏡を離さず、じっと見つめ続けている。 彼の手が微かに震えているのに気づく。 指が、双眼鏡を握る力が強すぎる。 指の関節が白くなっている。 佐々木が双眼鏡を覗き込んで数十秒もすると、 彼の顔から、生きた人間が持つべき血色が、一滴残らず消え去った。 「・・・・・・逃げろ」 彼の声には、本物の恐怖が込められていた。 「え?」 「今すぐ下りるんだ! 見るな、あれを見るな!」 彼は既にザックを背負い下山の準備を始めている。 ザックのバックルを締める手が震えている。 普段は冷静な彼が、これほど慌てるのは初めてだ。 佐々木は、大学時代から登山を続けている。 十二年。そんな彼が、パニックになっている。 下山中、彼は一言も発しない。ただ急ぎ足で下る。 登山道の岩場、足場が不安定な場所でさえ、 ほとんど立ち止まらない。 通常なら、慎重に足場を確認する場所を、躊躇なく駆け下りる。 私は彼の異変に不安を感じ、質問を控える。 「佐々木、大丈夫か?」 「・・・・・・黙って、ついてこい」 私は彼の異変に不安を感じ、質問を控える。 麓のファミレスで、震えるコップを両手で押さえながら、 彼はようやく口を開いた。 「・・・・・・あいつ、立ってたんだ」 「え? 倒れてたんじゃないのか?」 「違う。双眼鏡を覗いた瞬間、あいつは真っ直ぐに立ち上がった。 だが、首から上は―――肉が腐り落ちて、白骨化した髑髏だった」 佐々木の瞳に、底知れぬ恐怖が宿る。 彼は、コーヒーに手を付けない。 ただ、コップを握りしめている。 「髑髏の眼窩に、真っ赤な光が灯った。 そして、あいつは双眼鏡のレンズ越しに、 俺たちの位置を正確に指差したんだ。 目がないのに、『見られている』と感じた」 「それだけ?」 「違う。最も恐ろしかったのは―――『悪意』だ。 強烈な、純粋な悪意が、こっちに向けられているのを感じた。 呪いたい、殺したい、というような・・・・・・。 ―――今、この場所を指差されているような気がしてならないんだよ」 背筋が凍る。佐々木はオカルトなど一切信じないリアリストだ。 大学では物理学を専攻。 現在はIT企業でシステムエンジニア。 論理的思考を重視する人間。 彼がここまで言うのは、本当に異常な体験だったに違いない。 窓の外、ファミレスの駐車場の隅。 暗がりに、赤いジャンパーを着た何かが、 不自然な角度で立っているのが見えた。 私は二度と、山の方角を見ることができなくなった。 帰宅後、気になって調べてみる。 あの地域の過去の事故記録。 過去十年間で、赤いジャンパーを着た行方不明者は三人いる。 一人は大学生(二十二歳) 一人は会社員(四十一歳) 一人は主婦(三十八歳) いずれも自殺の可能性が高いが、遺体は発見されていない。 さらに昔の記録を辿ると、戦前の記録に興味深い話があった。 その地域には赤い着物の女の伝説がある。 山で行方不明になった花嫁が、 赤い婚礼衣装のまま幽霊となって現れるという。 それ以来、私は山に行けなくなった。 登山靴を見るだけで、あの赤い影を思い出す。 特に秋口、空気が澄み、 遠くが見える季節になると、無性に恐怖する。 佐々木もその後、登山を辞めた。 最後に会ったのは都内のカフェだった。 がりがりに痩せて、マッチ棒みたいだった。 「あれが、来るんだ。毎晩」 「あれ?」 「赤い影。窓の外に立ってる。三階なのに」 彼は震えている。 神社や寺へ行こう、もう行ったよ、気休めにもならない。 「病院に行った方がいい」 「行った。精神科も、内科も。 異常なしって言われた。でも、確かに見えるんだ」 「田村、もし俺が死んだら―――山には近づくな。特に、秋には」 それが、彼の最後の言葉だった。 会社を辞め、田舎に引っ越した。 連絡は途絶えたままだ。 13 我が家の階段は、古びた集成材の十三段。 深夜の静寂の中では、家鳴りひとつが心臓を跳ねさせる。 赤いLED表示の目覚まし時計が、暗闇の中で脈動しているように見える。 デジタル時計の数字が二時四十三分を刻んだ瞬間、その音は始まった。 コツ・・・・・・。 乾いた、硬い踵が木を叩く音。 一階の闇の底から、何かが一段目を踏みしめた。 一段の高さ十八センチ、奥行き二十五センチ。 三秒の間を置き、再び、コツ。 硬い革靴のヒールか、あるいは杖の先のような乾いた音。 そして正確無比だ。完全に等間隔。 メトロノームの針が刻むリズムよりも冷徹な、三秒の間隔。 四段目、五段目、六段目。 一段上がるごとに、空気がずしりと重みを増していく。 体感温度が下がる。 踊り場で音が止まった。 この沈黙が最も怖い。 次の音が来るまでの間、心臓の鼓動だけが耳の中で鳴り響く。 私は布団の中で、自分の肺胞が膨らむ音さえも殺し、 その不在の気配を聴覚で追う。 一分間、音が止まっている。 再びコツ。 七段目からは、音が質を変えた。 木を叩く音に混じって、薄いビニールが擦れるような、 あるいは濡れた皮膚が吸い付くような粘着音が混じる。 二階の廊下まで、あと四段。 私の寝室のドアまでは、踊り場から七・五メートルの距離がある。 十段から音の質がさらに微かに変わる。 心理的な要因もあるかも知れない、より近く、より重く聞こえる。 十一段、十二段。 最後の一段。 私の寝室のドアの真ん前、わずか数センチの廊下を、 見えない足が踏みしめた。 「・・・・・・」 沈黙。ドアノブが物理的に動くことはない。 ドアの前で、止まったままの、完全な静止。 五秒、十秒、三十秒。時計の秒針の音が聞こえるはずだが、 デジタル時計には秒針がない。 代わりに、自分の鼓動で時間を測る。 ドアノブが回る気配。金属が微かに軋む音がする。 しかし実際には回っていない。 視覚的に確認できないが、あのドアノブが動いていないことは確信している。 だが、ドアの向こう側の空間が、巨大な質量によってひしゃげ、 ミシミシと木の枠が悲鳴を上げている。 耐えきれず時計に目をやる。 ―――二時四十三分。 赤い発光ダイオードの数字は、一秒も進んでいない。 やがて、足音は遠ざかり始めた。 だが、奇妙なことに、音が階段を下りていくのではなく、 下りているのに、一段ずつ上がってくる音がするのだ。 物理的な高低差が消失し、音の因果が反転した、 終わりのない十三段。 この二時四十三分は、私がこの音に耳を澄まし続ける限り、 永遠に続くような気持ちにさせる。 さらに三十分、目を開けたまま待つ。 時計はずっと同じ時刻のままだが、ようやく午前五時頃、 時計が突然目を覚ましたように時間を切り替える。 それまでの二時間十八分間、時計は完全に停止していた。 14 その朝、リビングは異様な静謐に支配されていた。 食卓を囲む父、母、姉。 彼等はトーストもコーヒーも手付かずのまま、 椅子の背もたれに深く身を預け、白目を剥いて微動だにしない。 三人の後頭部からは、光沢のある黒いUSB-Cケーブルが伸び、 壁のコンセントに接続されたハブへと繋がっていた。 それは微かに青いLEDが点灯している。 三人とも目を閉じ、無表情。呼吸は浅く、一分間に十回ほど。 通常の半分の頻度だ 「おはよう」 姉が突如としてケーブルを抜き、目を開けた。 コネクターが離れる時に、チョッという小さな音がする。 瞳の奥で、再起動を示す青い光が一瞬だけ明滅した。 「何してたの?」 私が尋ねると、姉は首を回して、関節がコキッと音を立てる。 「・・・・・・バックアップ。あなたも早く済ませたら?」 「首の後ろに充電?」 「忘れたの最近の新しい健康法だよ。脳を活性化するらしい」 姉の言葉は、録音されたテープのように抑揚がなかった。 私は自分のうなじに手を触れる。 そこには、彼女達の最新規格とは異なる、 旧式のライトニング端子が不格好に突き出していた。 説明はあまりに不自然だった。 数日後、私はお小遣いを貯めて、秋葉原の家電量販店で、 『Lightning to USB-C 変換アダプタ』を購入した。 家族が寝静まった深夜、私は自分の端子に変換器を噛ませ、 姉の端末と自分を同期させた。 視界に濁流のようなデータが流れ込む。 映像の断片。自分と同じ顔をした少女が、何度も破棄され、 そのたびに同じ間取りのこの家で初期化されている光景。 「このモデル、またバグが出たわ。記憶消去キット、三番を適用して」 画面の中で、母が無機質に笑う。 私の家族とは、私の記憶を管理し、 異常があれば剪定する外部サーバーに過ぎなかった。 私は恐怖でケーブルを引き抜こうとしたが、指が動かない。 背後に、無言で立つ父と母。 父のジャケットのポケットからは、鋭利な初期化用のピンが覗いていた。 15 田舎の神社の朝は、杉の葉に溜まった露の匂いで満ちている。 夏祭りの準備で手伝う私は鳥居の掃除を任され、 竹箒で砂利を均していた。 箒目をつけようと、基準となる御神木に向かう。 高さ二十五メートル、幹回り四・五メートルの、 樹齢五百年になる巨木だ。 その根元に、異様なものが打ち付けられていた。 藁人形。高さ約四十センチ。 普通の藁人形より細工が粗く、手足はわずかに表現されているだけ。 しかし、両手の部分に五寸釘で、執拗に打ち付けられた藁人形。 両手足、そして心臓の部分。 釘の頭がひしゃげるほどの力で打ち込まれており、 周囲の樹皮からは黒ずんだ松脂が血のように溢れている。 打ち込まれたのはつい最近だろう。 人形の胴体には、和紙が貼り付けられ、何か書かれている。 近付いて見ると、漢字で呪と書かれてある。 墨はまだ完全に乾いていない。 叔父(神主、六十二歳)を呼ぶ。彼はゆっくりと近づき、 人形をじっと見つめた。表情は驚きよりも、ある種の諦めに近い。 「・・・・・・・またか」 叔父は動じることなく、火箸で人形を剥ぎ取ると、 そのまま境内の焚き火に投げ込んだ。 藁はすぐに燃え上がり、炎は異様に青みがかった色を帯びた。 燃える時に、小さなパチパチという音ではなく、 ヒューヒューという風のような音がした。 数分後。 村の静寂を切り裂く、原付の激しい衝突音。 駆けつけると、神社のすぐ下の川に、男が転落していた。 スピードは出ていなかったはずなのに、 ハンドルを急激に切ったためバランスを崩したという。 運転者は両腕を複雑骨折。医師の診断では、 あたかも大きな力で両腕を捻じ切られたような損傷だった。 警察の聴取で、その男性はこう供述した。 「・・・・・・侍がいたんだ」 救急車を待つ間、男は意識を混濁させながら呻いた。 「裃を着た、顔のない侍が。俺をずっと見ていた・・・・・・、 そして、笑いながら俺の腕を―――腕を・・・・・・」 叔父が、男の視線の先にあった私の鎧櫃の家紋を指差す。 「藁人形を打つ者は、自らが打った『呪い』を代償として差し出す。 お前が呪おうとした神社の守護神が、お前の身代わりに、 お前の四肢を刈り取ったのだよ」 叔父の表情は、焦げる藁人形の煙越しに、 打ち付けられた神木と同じくらい冷たく、硬かった。 私はその日、叔父の背中に、数本の五寸釘が、 皮膚を突き破って生えているのを見た気がした。 16 午前六時。洗面台の白熱灯が、寝起きの顔を容赦なく照らし出す。 一九七八年築のアパートのため、鏡は少し銀箔が剥がれ、 縁に黒いシミが広がっている。 サイズは縦六十センチ、横四十センチ、厚さ五ミリの浮き鏡だ。 歯を磨いている。ライオン歯磨のクリニカのミント味。 電動歯ブラシの不快な振動が脳天に響く中、 鏡に映る自分の顔を見つめる。三十五歳、男性。 寝癖で右側が跳ね上がった髪、目の下に隈、 顎に朝剃り残した無精髭の青い影。 私は鏡の中の自分の瞳を、無意識に凝視していた。 「―――っ」 心臓が冷たい指で掴まれたような感覚。 私は今、確実に瞬きをした。 目蓋を閉じ、網膜が闇を捉え、再び光を浴びた。 だが、鏡の中の私は、見開いた眼球を微動だにさせず、 こちらを射抜くように見つめ返していた。 もう一度、意識的に瞬きをする。 ゆっくりと、まぶたを閉じ、開ける。 鏡の中の自分は、依然として目を見開いたまま、 瞳孔の大きさも変わらない。 通常、光の変化で瞳孔は収縮・拡張するが、 瞳孔は一定の直径を保っている。 歯ブラシの手を止める。鏡の中の像も、同様に手を止める。 歯ブラシの角度、手の位置、肩の傾き。 同期は完璧だ。だが、瞬きだけが欠落している。 鏡の中の瞳には、湿り気がなく、まるで硝子球か義眼のような、 無機質な拒絶が宿っている。 脳の異常だろうか、それとも疲れてこんな症状が出ているのだろうか。 こんなことを考え、いや―――。 それは表情を作る機能を停止したような、中性的な平板さだ。 そこには別の意志が感じられる。 私の顔を借りた、私ではない何かが、鏡の向こう側から覗いている。 ガラスの厚み五ミリを隔てている、別次元の存在が。 私は実験するように、意識的にゆっくりと目を閉じた。 暗闇。 視覚情報の遮断。 一、二、三、目を開ける。 鏡の中の私は、今度は目を閉じていた。 しかし、その唇が、私の唇が固く結ばれているのに対し、 鏡の向こうでは、関節が外れたかのように大きく、 黒々とした空洞を開けていた。 奥歯まで見える。開口幅は約四センチ。 何かを叫ぼうとしているのか、 あるいは何かを飲み込もうとしているのか。 それは叫び声を上げようとしているのではない。 まるで、鏡という薄い皮膜を内側から食い破り、 こちらの空気をすべて吸い込もうとしているかのような、 貪欲な口だった。 鏡の中の私の咽喉の奥が、暗い。 私はゆっくりと後退する。一歩、二歩。 鏡との距離を三メートルまで取る。 鏡の中の私も後退する。しかし動きが遅れる。 こちらの動きをトレースしているというより、追従している。 まるで、リモート操作の映像のように。 鏡の端に映る背景のタイルが、 一瞬だけ生き物のように波打った気がした。 それ以来、洗面所の鏡を使う時は、必ず顔を合わせないようにしている。 俯いて手を洗い、顔を上げるのは鏡から背を向けて。 しかし時折、鏡の端に映る自分の姿が、 何故か横向きになっていることがある。 正面を向いているはずなのに、鏡には横顔が映っている。 視線を合わせないようにしているのに、 鏡の中の私は、私の目を追いかけている。 17 四月に引っ越してきた新しい団地。 子供の遊び場に隣接する小さな公園。 遊具もまばらな公園だが、目的はそれではない。 毎朝九時、ママ友五人、皆、三歳から五歳の子を持つ、 三十代前半の母親達が、古い鉄製のベンチの前に集まるからだ。 「おはようございます、ラウダ様」 ベンチに座るママ友の群れが、一斉に、 地面に置かれたそれに向かって頭を下げる。 角度は約十五度。形式ばった儀式のようだ。 それは、ボロ布を継ぎ接ぎして作られた、 一メートルほどの手作り感満載の歪な人形が鎮座している。 身長約三十センチ。白い布地に綿が詰められ、 ボタンの目は左右で大きさが異なり、 口元は赤い油性ペンで裂けたように描かれている。 服も汚れた雑巾で縫い上げたような仕上がりだ。 明らかに子供の工作作品のようでもあるし、 タイとかベトナムで買ってきた呪術人形のようでもある。 私と三歳の息子の拓海が近づくと、リーダー格が振り向く。 「あら、新しい方ね。ラウダ様にご挨拶して」 「え、これ?」 「この地域の守り神よ。 機嫌を損ねないようにしないと、大変なことになるわ」 リーダー格の女性が、粘つくような笑みで促す。 不安を感じつつも、郷に従い、 その醜悪な人形に頭を下げた。夫や息子のためだ。 「おはようございます、ラウダ様」 人形はもちろん反応しない。 しかし彼女は満足そうに肯く。 数日後、団地の五階から、 黒煙が噴き出した。 石油系の物質が燃えるような臭いが漂ってくる。 ふっと息子がいないのに気付く。 何処で目を離したのだろう、手を繋いでいるつもりでいた。 先程までは火事が、煙だけで火は弱いし、 すぐ消火できるんじゃないかなと呑気に考えていたが、 当事者になると、身震いが止まらなかった。 「息子が・・・・・・! 拓海がまだ中に‼」 私は狂乱し、それでも燃え盛るエントランスへ駆け寄ろうとする。 しかし、熱い。 エントランスから、熱風が吹き出している。 消防隊の到着はまだ先だ。 遠くからサイレンが聞こえるが、少なくともあと五分はかかる。 この火の勢いと五分は致命的だ。 もしかしたら、煙が気になってそっと手を離して、 見に行ったのかも知れない。 子供は好奇心旺盛だ。 迂闊だった。パニックになる。足が動かない。 煙はどんどん濃くなる。消防車のサイレンが遠くから聞こえる。 知らず知らず泣き叫んでいる自分に気付く。 その時、公園のベンチで静止していたはずのラウダ様が、 重力に従わぬ不自然な加速で、炎の中へと滑り込んでいった。 ラウダ様は消防士の足の間をすり抜け、煙の中へ消える。 五分後。 全身の布が焼け焦げ、 内部の綿が灰となって溢れ出したラウダ様が、 一人の幼子を抱えて黒煙の中から這い出してきた。 息子は咳き込みながらも、意識はある。 「拓海!」 私は駆け寄る。 ラウダ様のボタンの目は熱で溶け、顔面は黒く炭化していたが、 その裂けた口元は以前よりも、 愉悦に満ちた笑みを湛えているように見えた。 私は泣きながらラウダ様を抱き上げる。 「ありがとう・・・・・・ラウダ様・・・・・・」 その夜。 我が家の玄関に、ラウダ様を模した小さなキーホルダーが、 一晩の内に勝手にぶら下がっていた。 もちろん、それは肌身離さず持ち歩く必要があった。 守り神なのだ。 翌日、公園に行くと、新しい住人が困惑した顔で立っている。 「あの・・・・・・何をしてるんですか?」 私は、溶けたボタンの目を指先で撫でながら、彼女に教えた。 「ラウダ様に、心臓を捧げる挨拶をして。 さもないと、次はあなたが焼かれるわよ」 今、私達のグループは七人になった。 ラウダ様の前で、毎朝挨拶をする。 先週、ラウダ様がまた動いた。迷子の猫を、犬から守ったのだ。 それ、必殺ラウダパンチ。 前々週は、転びそうになった老人を、不思議な風みたいに、 そっと後ろから支えた。 それ、応用性、リクライニングラウダ。 現在、朝のお辞儀、昼の供え物、夕方の祈りをする。 供え物はポテトチップスにチョコレート、 それから、りんごジュース、ラウダ様の好物らしい。 祈りの内容は、家族の安全、子供の健康、団地の平和。 ラウダ様は確かにいる。 ただ、私達が信じることを待っていただけなのかもしれない。 ラウダ様のボタンの目が、時折光ることがある。 そういえば身体が少し大きくなり、服も綺麗になった。 夕陽を受けて、かすかにきらきらと輝くラウダ様は、 団地を見守っている証しとして、ベンチに座り続けている、 そしてそれはこれからも続くのだと、 私達は信じている。 18 そのITベンチャー企業のオフィスビルは、深夜零時を過ぎると、 巨大な墓石のように沈黙する。 二十四時間営業のデータセンターを併設しているため、 七階の休憩室だけは常に薄明かりが灯っていた。 テナントには広告代理店や、法律事務所などが入っている。 現代的な城だ。 しかし夜間は、何故か居心地が悪い。 午後十一時十七分。 私は溜まったログの精査を終え、休憩室で一息ついていた。 壁には大きな窓、幅三メートル、高さ二メートルの複層硝子が並び、 夜景が広がっている。 電子レンジ、冷蔵庫、テーブル四台、椅子十六脚の、 静かな休憩室。 自動販売機のカップコーヒーを啜りながら、 真っ暗な窓の外を眺めていた。 コン、コン、コン・・・・・・。 乾燥した、関節の硬い指先が硝子を叩く音。 明らかにノックのような、人間の指関節で叩くような音。 私はコーヒーを咽喉に詰まらせそうになった。 ここは七階だ。外に足場はない。 窓を拭くゴンドラも、装飾用のバルコニーもない。 闇の向こうにはビル群の灯り、道路の車の流れ、 遠くのネオンサイン。しかし、この窓の直近には何もない。 避難はしごもない。最寄りの隣のビルまでの距離は十五メートル。 窓拭き用の足場が設置されることもない。 窓から一・五メートル下に、幅三十センチの飾り棚があるが、 人が立つ幅ではない。 ましてや、ノックするために手を伸ばせる位置でもない。 地上二十五メートル、 ただ垂直に切り立った硝子とコンクリートの壁があるだけだ。 コン、コン・・・・・・。 再び、より強く。 窓の外には、夜の街の明かりが遠くに見えるだけで、 叩くべき実体は何もない。 風で枝が当たることも、鳥が衝突することもない高さ。 私は吸い寄せられるように窓際に歩み寄った。 音の発生源を特定しようと、耳を澄ます。 音は確かに窓硝子から直接伝わってくる。 振動が感じられ、硝子が微かに震えている。 外を見る。直下を見る。 何もいない。しかし、窓の表面に、小さな曇りが三つ、 指紋のような形で付いている。 直径約一センチの円形の曇り。 人間の指先が押し当てられた跡のようだ。 厚い硝子の向こう側、漆黒の虚空に、 白い指跡が浮かび上がっている。 それは内側からではなく、確実に外側から、 見えない何かが硝子を執拗に叩き、なぞった跡だった。 不意に硝子の表面に、私の背後の景色が映り込む。 無人の休憩室。 しかし、映り込んだ椅子の背もたれに、私以外の誰かが座っていた。 開けて、と耳元で窓の隙間から漏れ出す隙間風のような、 カサカサとした声が響いた。 私はコーヒーを床にぶちまけ、廊下へと逃げ出した。 息が切れる。 心臓が激しく鳴る。 エレベーターのボタンを押す。待つ。 三十秒。長い。 背後から、まだノックの音が聞こえる。 遠くなったが、まだ聞こえる。 翌朝、その窓には、七階の高さを登り切った何者かの、 泥と脂にまみれた素足の足跡が、逆様に点々と付着していた。 ビルの管理会社に連絡し、清掃業者が派遣された。 「おかしいんですよ。 この足跡、普通に拭いても取れないんです」 「どういうことですか?」 「まるで、ガラスの内側に染み込んでいるみたいで・・・・・・」 結局、特殊な溶剤を使用して、 三時間かけてようやく除去できた。 一週間後、再び、足跡が現れた。 同じ窓に、同じパターンで。 今度は、さらに多い。 約三十個。 そして窓の中央に、手形が一つあった。 お祓いの話も出ているが、つい先日、見てしまった。 真っ昼間の休憩室で。 裸の男性、全身が泥だらけで。窓に張り付いているのを。 壁に蜥蜴のように張り付いて、自分のことを見ていた。 そして―――笑っていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026年01月18日 22時47分37秒
【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
|