2024/01/08(月)22:08
テレンス・マリック「名もなき生涯」シネ・リーブル神戸no47
テレンス・マリック「名もなき生涯」シネ・リーブル神戸 今日は2020年の3月9日です。昼前の高速バスに乗って三宮に出かけました。さほど混みあう路線ではありませんが、十数人の乗客が乗っていました。マスクをしていないのはぼく一人でした。ぼくは、今のところマスクはしません。理由は簡単でマスクがないからです。いったい、皆さんはどこでマスクを手に入れていらっしゃるのでしょう。でも、マスクを持っていても、多分、ぼくはマスクをしないでしょう。風邪をひいていないからです。同居人のチッチキ夫人は休みの日には手作りマスクを作っていますが、職場の必要に備えてのことのようです。
やってきた三宮ではシネ・リーブルで「名もなき生涯」という映画を見ました。寒くなった一月当初の出不精を反省して、積極的徘徊老人へと気持ちを切り替えて、ここのところ映画館徘徊に精を出しています。
街にマスクをした人があふれ始めた頃から映画館は快適です。「濃厚接触」の可能性は限りなくゼロに近い状態で、ほとんど個人専用試写会会場化しています。もっとも、当然、売り上げも限りなくゼロに近づいているはずです。その結果「無観客」上映から上映中止という事態をぼくは一番怖れています。
ヒトラーの有名な行進風景から映画は始まりました。1934年にレニ・リーフェンシュタールがニュールベルグのナチスの党大会の様子を撮った「意志の勝利」という映画のシーンだと思います。整然とした大行進、一斉に叫ばれる「ハイル・ヒトラー」がモノクロの映像で映っています。
続けて、美しいカラーの映像で、「アルプスの少女ハイジ」の風景が映り始めました。西洋の悪魔が手にしている、大きな鎌で草刈りをしている人々が映っています。最初にナチスの光景を見たからでしょうか、働いている人たちや、草原と山の美しい風景を見ながら涙がこぼれてきます。年ですね。
三人の幼い娘と、愛する妻、戦争未亡人の母がいる一人の農夫が戦争に行くことに疑問を感じます。その結果、徴兵とヒトラー礼賛を拒否し反逆罪で捕らえられます。
刑務所で暮らす男と、村で暮らす、その妻の姿が交互に映し出されます。映画は「あなたならどうする」を、繰り返し問いかけてきます。男に提示される交換条件、妻や家族が直面する苦難、そして、いつまでもその姿を現すことのない神。
「キリストはローマ人を許した」と諭す神父、くりかえされる暴力、拷問、翻意を促す甘言、村八分の村で暮らす家族、懐かしい山の風景、そして「死」の恐怖。
つぎつぎと映し出されるシーンは、どうして翻意しないのか、どうして一言「ハイル・ヒトラー」が言えないのかという問いを、見ているぼくに畳みかけてきます。そのとき、ふと、「自由」という言葉が浮かんできました。
哲学者の岩田靖夫が「ギリシア哲学入門」(ちくま新書)の中で「人間は、自由な絶対存在である」と言っていたことばが浮かんだのです。 自由な存在とは、何かするかしないかは、その人が決めるという存在のことである。絶対的存在という、その絶対的とは、「かけがえのない存在」といってもいいし、「取り換えの効かない存在」といってもいい。(中略)
人間は自由な絶対的存在だから、決して他人の道具にならない。道具にならないとは、他人の思い通りにならないということである。あるいは、他人を自分の思い通りにしようとすることはできないということである。本来は、絶対にできないのだ。(中略)
人と交わるというのは大変なことです。自分の善意に相手が答えてくれるかどうか。「こんにちは」と挨拶して、相手が「こんにちは」と挨拶を返してくれるか。それは、相手の自由にかかっている。相手の自由の深淵から湧き上がってくる応答を期待し、希望して、我々は、毎日、一所懸命「こんにちは」と呼びかけ続けなければならない。だから、それに応えが返ってきたら奇跡である。 農夫フランツの「不幸」は最初で最後のというべき「してはいけないこと」に気付いてしまったことにありました。
最初の「してはいけないこと」は、次々と、新たな「してはいけなかったこと」にフランツを出合わせます。
「村の仲間と仲たがいすること」、「家族を見捨てること」、「神を冒涜すること」、「命を粗末にすること」そして「美しい故郷を捨てること」。
最初の「してはいけないこと」が「善」であるのか「悪」であるのか、一人だけ「してはいけないこと」に固執するのは身勝手な生き方ではないのか、葛藤するフランツに答えはありません。ただ苦しむだけです。
村に残された妻ファニも、村人達の冷酷な仕打ち、苛酷な農作業、幼い子供たちの養育、希望が失われた生活に苦しみ続けています。
死刑執行を前にした面会室で、フランツとファニはやっとのことで再会します。無言の夫フランツの前で、妻ファニは叫びます。「愛している。あなたのJusticeを貫いて!」 「奇跡」が起きたのです。岩田靖夫が言う「自由な絶対的存在」であるフランツは、彼の「かけがえのない身勝手」にもっとも苦しめられている「他人」である妻ファニから「愛している。」という応答を受け取るのです。
この映画はテレンス・マリックという監督の自己満足の作品でしょうか?ちがうと思います。映画の半分は刑務所における農夫フランツの苦闘を追っていますが、残りの半分で、「自由な絶対的存在」がもたらした過酷を生きるファニと家族を丁寧に描いています。その結果「人間」と「人間」が出会う「奇跡」を描くことができたのではないでしょうか。
この映画では、「神」もまた挨拶が届かない「他者」でした。そういう意味では信仰への帰依を描いているとは、とても思えませんでした。
余計なことかもしれませんが映画を見ていて謎だったのは英語のセリフとドイツ語の背景でした。ドイツ兵のしゃべるドイツ語には字幕が出ないのですが、なにが意図されているのか、よくわかりませんでした。だいたい、なぜ、全部がドイツ語じゃないのか、という気分でもありますが。
ついでですが、フランツの同房の囚人として登場した男、ある場面で、死刑執行の場について印象的に語る男ですが、「希望の灯り」という映画で主人公を演じていた フランツ・ロゴフスキという俳優だったと思います。とてもいい味の演技でした。
監督 テレンス・マリック
製作 グラント・ヒル ダリオ・ベルゲシオ ジョシュ・ジェッター エリザベス・ベントリー
製作総指揮 マルクス・ロゲス アダム・モーガン ビル・ポーラッド
イー・ウェイ クリストフ・フィッサー ヘニング・モルフェンター チャーリー・ウォーケン
脚本 テレンス・マリック
撮影 イェルク・ビトマー
美術 セバスチャン・クラウィンケル
衣装 リジー・クリストル
編集 レーマン・アリ ジョー・グリーソン セバスチャン・ジョーンズ
音楽 ジェームズ・ニュートン・ハワード
キャスト
アウグスト・ディール(フランツ・イェーガーシュテッター:農夫)
バレリー・パフナー(ファニ・イェーガーシュテッター:フランツの妻)
マリア・シモン (レジー:ファニーの姉)
ブルーノ・ガンツ(判事)
2019年・175分・アメリカ・ドイツ合作 原題「A Hidden Life」
2020・03・09シネ・リーブル神戸no47追記2020・03・12
実は、この映画のあと、ちょっと期待している邦画の喜劇を見るつもりでした。かなり悩んだのですが、歩くことにしてトボトボ神戸駅までやってきました。駅前の交差点に仕事帰りのチッチキ夫人が偶然立っていて、ホッとしました。二人ともマスクはしていません。
「だって、感染予防の役には立たへんでしょ。」
「まあ、自分のバイキンをまき散らさへんエチケットの意味はあるやろ。」
「みんな、覆面してて、息苦しいないんかなあ。」
「まあ、人それぞれ自由にやってるんやったら、ええんちゃう?ぼくはせえへんけど。今日の映画見て、せえへん自信ついたし。」
「どんな映画やったんよ。」
ふたりで兵庫まで歩いて蕎麦屋さんで遅い昼食を済ませて帰宅しました。
帰ってメールを覗くと「ゆかいな仲間」のチビラ2号・ホタル姫がインフルエンザB型との連絡が入っていました。
「B型と聞いてホッとするって、へんやな。」
「かわいそうに、高い熱出てんのとちゃうやろか。」
「こないだお腹痛いって言うとったんはこれやな。」
「土曜日やったっけ。」
「ぼくらも、ちょっと。うつってるかもな。」
「あら、一緒のお皿で食べてたわよ。」
「濃厚接触のきわみやな。」
最後は、いつもの冬の「ジジ・ババ、お孫さん心配」会話でした。
追記2020・03・23
フランツ・ロゴフスキの「希望の灯り」の感想はこちらからどうぞ。
追記2020・08・02
最近見たニコラウス・ライトナー「17歳のウィーン フロイト教授人生のレッスン」という映画でフロイトを演じていたブルーノ・ガンツがこの映画では判事を演じていたことに気付きました。名優の生涯最後の演技の一つがこの映画にはあったのです。
そういうことに、見ながら気づけるようになりたいのですが、なかなか先は長そうです。
それにしても、「新コロちゃん騒ぎ」が始まったころの映画ですね。半年が過ぎようとしていますが、為政者が愚かであることだけが如実になっていくばかりです。ナチスとその支持者が跋扈する映画そのもののような世界が広がり始めているような気さえします。
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