2024/01/01(月)18:45
週刊 読書案内 津野海太郎 「最後の読書」(新潮社)
津野海太郎 「最後の読書」(新潮社)
津野海太郎という名前に最初に気付いたのはいつだったのでしょうかね。いつだったか、劇団「黒テント」のパンフレットで演出家として名前を見た時に「ハッ?!」とした記憶があるからそれ以前で、多分、学生時代です。
その頃彼は晶文社という出版社の編集者だったはずで、この本でも装幀している平野甲賀の独特のロゴで、そして、あの犀のマークで、リチャード・ブローティガンとか高橋悠二の「水牛通信」とかを作っていた人ということは知ってた記憶がありますから、まあ、その頃からですね。もう、40年くらい昔のことです。
名前は知っていて、作られた本にもお世話になっていて、でも、本人の著書は一冊も読んだことがありませんでした。この本がはじめてです。
この本は新潮社のウェブ・サイト「考える人」に連載されていて、評判になっているエッセイが紙の本になったものです。
第1回は2017年の5月8日の日付ですかが、「読みながら消えてゆく」と題されて、哲学者鶴見俊輔の最晩年の日々の読書について書き始められています。
話しは鶴見俊輔の書き残したメモから始まります。 七十に近くなって、私は、自分のもうろくに気がついた。
これは、深まるばかりで、抜け出るときはない。せめて、自分の今のもうろく度を自分で知るおぼえをつけたいと思った。(鶴見俊輔「もうろく帖」) その後、このメモは「もうろく帖」と題してSUREという出版社から書籍化されますが、津野海太郎はこの本を丁寧に読み解きます。
で、鶴見俊輔が生涯最後に書き残した短い文と、その最後の姿にたどり着きます。倒れる直前の、最後のメモの日付は2011年10月21日。「私の生死の境にたつとき、私の意見をたずねてもいいが、私は、私の生死を妻の決断にまかせたい」(鶴見俊輔「もうろく帖」) そのあと、星じるし(*)をひとつはさんで、編纂者(もしくは家族のどなたか)の手になるこんな記述が付されている。二〇一一年一〇月二七日、脳梗塞。言語の機能を失う。受信は可能、発信は不可能、という状態。発語はできない。読めるが、書けない。以後、長期の入院、リハビリ病院への転院を経て、翌年四月に退院、帰宅を果たす。読書は、かわらず続ける。
二〇一五年五月一四日、転んで骨折。入院、転院を経て、七月二〇日、肺炎のため死去。享年九三。 名うての「話す人」兼「書く人」だった鶴見俊輔が、その力のすべてを一瞬にして失ったということもだが、それ以上に、それから3年半ものあいだ、おなじ状態のまま本を読みつづけた、そのことのほうに、よりつよいショックを受けた。 ここから津野海太郎は「最後の読書」について考え始めます。もちろん、彼の思考のモチーフとしてあるのは「年齢」あるいは「老化」ということです。
そして、もう一つは鶴見俊輔に対する敬意であり、そこにこそ、ぼくにとってこのエッセイが手放せない理由がありました。
彼は、少年時代からの「雑読多読」の天才少年鶴見俊輔についてこんなふうに考えて行きます。 いくばくかの誇張があるかもしれない。でも、たとえそうだったとしても、当時、かれが日本一のモーレツな雑書多読少年だったことはまちがいなかろう。こうした特異な読書習慣は、15歳で渡米したのちは外国語の本も加えて、その後も途切れることなくつづく。そしてその延長として、話す力や書く力を完全に失ったのちも、鶴見は最後まで、ひっきりなしに本を読みつづけることをやめなかった。すなわち発信は不可能。でも受信は可能――。 ――ふうん、もしそういうことが現実に起こりうるのだとすると、老いの底は、いま私が想像しているよりもはるかに深いらしいぞ。 ショックを受けてそう思い、またすぐにこうも考えた。もしこれが鶴見さんでなく私だったらどうだろう。たとえかれほど重くなくとも、遠からず私がおなじような時空に身をおく確率は、けっこう高い気がする。そうなったとき発信の力を欠いた私に、はたして3年半も黙々と本を読みつづける意力があるかどうか。
いまのところ「ある」といいきる準備は私にはないです。でも鶴見俊輔にはあった。どこがちがうのかね。そう思って晩年のかれの文章をいくつか読んでみたら、2002年(脳梗塞で倒れる9年まえ)にでた『読んだ本はどこへいったか』中の「もうろくの翼」という文章で、こんな記述にぶつかった。 ふだんは自分の意志で自分を動かしているように思っていても、その意志を動かす状況は私が作ったものではない。(略)今、私が老人として考えているのは、何にもできない状態になって横になったときに、最後の意志を行使して自分に「喝」と言うことはできるのかという問題です。(鶴見俊輔「もうろくの翼」)おわかりでしょう。
すでにこの時期、鶴見さんは「何にもできない状態になって横になった」じぶんを思い浮かべ、そのステージでのじぶんの行為が「自分の意志」(自力)によるものなのか、それとも老衰をもふくむ「状況」(他力)にもとづくものなのかを、最後の病床で、実地にためしてみようと考えていたらしいのである。 ここまでたどり着いて、津野海太郎は鶴見の晩年の読書の「意志」を称えながら、それを支えたある重要な言葉を思い出します。
それは幸田露伴の娘幸田文が「勲章」という作品に書き残しているこんな言葉でした。書ければうれしかろうし、書けなくても習う手応えは与えられるとおもう。(幸田文「勲章」) この文を、鶴見俊輔が誤読しているのではないかという興味と共に、ここからエッセイは第2回「わたしはもうじき読めなくなる」へと続いて行きます。
エッセイストとしての手練れの技というべきかもしれませんが、鶴見俊輔から幸田文へと話がすすめば、鶴見のより深い地点が探られるに違いないという興味とともに、あの幸田露伴の晩年が語られるに違いないのです。
もう、ページを繰る手を止めることはなかなか難しいのではないでしょうか。
本書にはウェブ版「最後の読書」第17回「貧乏映画からさす光 その2」までがまとめられています。
そこでは映画「鉄道員」と須賀敦子の関係が、彼女の夫ペッピーノや彼の家族の生活、コルシア書店での活動を探りながら語られています。
老化を笑うユーモアを配しながら、「最後の読書」などとうそぶいていますが、選ばれたラインアップは、ぼくにとって「これからの読書」を穏やかに煽る刺激に満ちていました。
まあ、すでに老眼鏡必携の前期高齢者なのですがね(笑)。
ボタン押してね!
ボタン押してね!