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津野海太郎 「最後の読書」(新潮社)
津野海太郎という名前に最初に気付いたのはいつだったのでしょうかね。いつだったか、劇団「黒テント」のパンフレットで演出家として名前を見た時に「ハッ?!」とした記憶があるからそれ以前で、多分、学生時代です。 七十に近くなって、私は、自分のもうろくに気がついた。 その後、このメモは「もうろく帖」と題してSUREという出版社から書籍化されますが、津野海太郎はこの本を丁寧に読み解きます。 倒れる直前の、最後のメモの日付は2011年10月21日。 「私の生死の境にたつとき、私の意見をたずねてもいいが、私は、私の生死を妻の決断にまかせたい」(鶴見俊輔「もうろく帖」) そのあと、星じるし(*)をひとつはさんで、編纂者(もしくは家族のどなたか)の手になるこんな記述が付されている。 二〇一一年一〇月二七日、脳梗塞。言語の機能を失う。受信は可能、発信は不可能、という状態。発語はできない。読めるが、書けない。以後、長期の入院、リハビリ病院への転院を経て、翌年四月に退院、帰宅を果たす。読書は、かわらず続ける。 名うての「話す人」兼「書く人」だった鶴見俊輔が、その力のすべてを一瞬にして失ったということもだが、それ以上に、それから3年半ものあいだ、おなじ状態のまま本を読みつづけた、そのことのほうに、よりつよいショックを受けた。 ここから津野海太郎は「最後の読書」について考え始めます。もちろん、彼の思考のモチーフとしてあるのは「年齢」あるいは「老化」ということです。 いくばくかの誇張があるかもしれない。でも、たとえそうだったとしても、当時、かれが日本一のモーレツな雑書多読少年だったことはまちがいなかろう。こうした特異な読書習慣は、15歳で渡米したのちは外国語の本も加えて、その後も途切れることなくつづく。そしてその延長として、話す力や書く力を完全に失ったのちも、鶴見は最後まで、ひっきりなしに本を読みつづけることをやめなかった。すなわち発信は不可能。でも受信は可能――。
ふだんは自分の意志で自分を動かしているように思っていても、その意志を動かす状況は私が作ったものではない。(略)今、私が老人として考えているのは、何にもできない状態になって横になったときに、最後の意志を行使して自分に「喝」と言うことはできるのかという問題です。(鶴見俊輔「もうろくの翼」) おわかりでしょう。 ここまでたどり着いて、津野海太郎は鶴見の晩年の読書の「意志」を称えながら、それを支えたある重要な言葉を思い出します。 それは幸田露伴の娘幸田文が「勲章」という作品に書き残しているこんな言葉でした。 書ければうれしかろうし、書けなくても習う手応えは与えられるとおもう。(幸田文「勲章」) この文を、鶴見俊輔が誤読しているのではないかという興味と共に、ここからエッセイは第2回「わたしはもうじき読めなくなる」へと続いて行きます。 エッセイストとしての手練れの技というべきかもしれませんが、鶴見俊輔から幸田文へと話がすすめば、鶴見のより深い地点が探られるに違いないという興味とともに、あの幸田露伴の晩年が語られるに違いないのです。 もう、ページを繰る手を止めることはなかなか難しいのではないでしょうか。 本書にはウェブ版「最後の読書」第17回「貧乏映画からさす光 その2」までがまとめられています。 そこでは映画「鉄道員」と須賀敦子の関係が、彼女の夫ペッピーノや彼の家族の生活、コルシア書店での活動を探りながら語られています。 老化を笑うユーモアを配しながら、「最後の読書」などとうそぶいていますが、選ばれたラインアップは、ぼくにとって「これからの読書」を穏やかに煽る刺激に満ちていました。 まあ、すでに老眼鏡必携の前期高齢者なのですがね(笑)。 ボタン押してね! ボタン押してね! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.01.01 18:45:44
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