2023/05/10(水)00:37
週刊 読書案内 谷川俊太郎「ベージュ」(新潮社)
谷川俊太郎「ベージュ」(新潮社) 谷川俊太郎の新しい詩集です。2020年7月30日に出版されています。図書館の新入荷の棚で見つけました。
どこ?
ここではない
うん
ここではないな
そこかもしれないけれど
どうかな
「場」をさがしあぐねているのだ
みちにあたるものは
まっすぐではなく
まがりくねるでもなく
どこかにむかっているらしいが
そうだ
まなつのあさの
くだりざかをわすれてはいけないな
ひとりよがりで
ひたすらおりていけばいい
「場」があることだけはたしかだから
うん
そうおもっているものたちはまだ
いきのびているはずだ
そこここでことばにあざむかれながら
とおくはなれたところにいても
そこにいれば
ほら
そこがここだろというばあさんがいて
わからんものははにかんでいる
とにかくいかねばならないなどと
いきごんでいたきもちが
きがついてみるといつか
うごくともなくうごく
くものしずけさにまぎれている
おんがくのあとについていっても
うん
みずうみのゆめがふかまるだけ
いちばんちかいほしにすらいけない
なさけなさをがまんするしかない
そう
ありふれたくさのはひとつみても
はじまっているのか
おわりかけているのか
みきわめるすべがないだろ
〈そう〉は〈うそ〉かもしれないとしりながら
きのうきょうあすをくらしているのが
きみなのかこのわたしなのかさえ
ほんと
といかけるきっかけがみつからない
ただじっとしているのが
こんなにもここちよくていいものか
「場」はここでよいとくりかえす
かぼそいこえがまたきこえてきた
きずついたふるいれこーどから
「場」がいきなりことばごときえうせて
うん
ときがほどけてうたのしらべになったとき
わたしはもう
いきてはいなかった 谷川俊太郎の詩を読むときには、何となく「青空」を探してしまいます。上に引用した「どこ?」という詩は、詩集のいちばん最後に載っている作品なのですが、ここまで読んできて、いくつかの詩に「青空」という単語がでてきます。
たとえば、最初の頃にある「イル」という詩には、「空が青い 今も昔も青いが」 とか、「この午後」という詩には 若いころ、青空はその有無を言わせない美しさで、限りない宇宙の冷酷を隠していると考えたものだが、人間の尺度を超えたものに対するもどかしさと、故知らぬ腹立たしさのようなものは、齢を重ねた今も時折私を襲う。 といった詩句が出てきますが、この詩を選んだ理由は「まなつのあさのくだりざかをわすれてはいけないな」 という言葉が気に入ったからです。この言葉が書かれた結果、この詩全体を覆う「青空」を感じたからという方が正直でしょうか。
この詩は「場」という言葉以外、すべて、ひらがなで書かれていますが、谷川俊太郎は「あとがき」で「ひらがな回帰」について「文字ではなく言葉に内在する声、口調のようなものが自然にひらがな表記となって生まれてくる」
「文字にして書く以前にひらがなの持つ「調べ」が私を捉えてしまうのだ」 といっています。
加えて、この詩集の書名「ベージュ」についてはこんなことを書いていました。 来し方行く末という言葉は若いころから知っていたが、それが具体的な実感になったのは歳を取ったせいだろう。作者の年齢が書く詩にどこまで影を落としているか、あまり意識したことはないが、自作を振り返ってみると、年齢に無関係に書けている詩と、年齢相応の詩を区別することはできるようだ。米寿になったが、ベージュという色は嫌いではない。
2020年 六月 谷川俊太郎 コロナ騒動の最中に出来上がった詩集だったようです。ぼくのような読者には、ちょっと、感無量な「あとがき」ですが、お元気で、「詩」を書き続けられることを祈ります。
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