2023/08/27(日)00:03
週刊 読書案内 大江健三郎「芽むしり仔撃ち」(「大江健三郎全小説1」講談社)
大江健三郎「芽むしり仔撃ち」(「大江健三郎全小説1」講談社) まったくの偶然なのですが、昨秋から、なんとなく大江健三郎を読む機会があって読んでいたら亡くなってしまうという、まあ、一大事件に重なってしまって、そういうことならという気分で1作ずつ読みなおしです。
今更な紹介ですが、大江健三郎は1957年、東大新聞に発表した「奇妙な仕事」で、平野謙という批評家から激賞され、引き続き「死者のおごり」という作品で同年の下期の芥川賞候補に名を連ね、翌1958年上期、「飼育」で芥川賞を受賞したのが23歳です。
で、その同じ年に、一応、長編小説として発表されたのが、今回、ボクが読み直した「芽むしり仔撃ち」(新潮文庫ほか)でした。
作品の冒頭、第1章「到着」の第1行がこんな文で始まっています。夜更けに仲間の少年の二人が脱走したので、夜明けになっても僕らは出発しなかった。 語り手は「僕」です。「僕」は感化院に収容されている少年です。時代は都市部が空襲にさらされていた太平洋戦争の末期です。
冒頭は遠い都市の感化院に収容されていた十代後半の少年たちが、戦禍が広がる中、感化院ごと山の村に疎開するという、ありそうでなさそうな旅の途中のある朝の描写です。
「僕」と同世代の少年たちと引率の大人が一人という旅に、たった一人だけ年少の少年が紛れていますが、「疎開するならこの子も兄と一緒に連れて行ってくれ。」と両親が依頼した「僕」の弟です。小説は、「飼育」と同型の兄と弟の物語でもあるというわけです。
やがて、一行は山の、川向うにある村に到着しますが、到着した「僕」が語るのがこんな内容でした。 僕らは出発以後、性こりもなく脱走の試みをくりかえしては、村々、森、川、畑の隅ずみで
悪意に燃えさかる村人にとらえられ半死半生の状態でつれ戻された。僕ら遠い都市から来た者たちにとって村は透明でゴム質の厚い壁だった。そこへもぐりこんでもやがてじりじり押し戻され突き出されてしまう。(P217) 僕らの旅は終わろうとしていた。それが暗渠のなかの移動にすぎないにしても、旅が続けられている間は、果たせないに脱走を少なくとも試みる機会はあったのだった。しかし、限りなく奥へと入りこみ、山々のあいだ谷の向こうの村に定住する場所を見つけてしまったなら、僕らは始めに感化院の柿色の塀の内側へ送りこまれた時よりもなお、厚い壁の奥、深い淵の底へ閉じ込められた気がするだろう。そしてがっくりしてしまうだろう。僕らが旅を続けてきた数かずの村がたちまち強固な一つの輪を閉じてしまった後、そこから脱けでることができるとは思えない。(P218) 読書案内とかいいながらなんですが、今回、この小説の具体的な展開をここで紹介する気はありません。この作品を、さて、何年ぶりでしょう、ともかく、かなり久しぶりに読み直して、「あっこれは!」 というふうに驚いたことがあったんですね。で、それは何かというと「壁」だったんです。
最初に引用した1行に端的に出てくる「脱出」と「出発」ということばが「個人的な体験」(新潮文庫)に至る、大江の初期作品群に頻出する象徴的な言葉だなあという気分で読み始めたわけで、まあ、そのあたりで気づけばいいものを、上の引用個所にたどり着いてようやく驚いたというわけです。
この作品を語っているのが「厚い壁の奥、深い淵の底へ」に閉じ込められた「僕」だったということに、なんと、まあ、今迄気づいていなかったんですね。
何をくだくだ言っているのかと思われるのかもしれませんが、大江の20年後、1979年に「風の歌を聴け」(講談社文庫)で出発した村上春樹の40年間にわたって書き続けてきた世界のテーマの一つは「壁」ですよね。今、話題ですが、最新作「街とその不確かな壁」(新潮社)のほぼ冒頭にこんなセリフがあります。「本当のわたしが生きて暮らしているのは、高い壁に囲まれたその街の中なの」(「街とその不確かな壁」P9) 村上の最新作にこのセリフがあることに、ボクはさほど驚きません、しかし、20代のころの大江の初めての長編「芽むしり仔撃ち」の「僕」の述懐との一致には驚いたというわけです。
大江の「壁」について、彼を発見した批評家として有名な平野謙はこんなことを書いています。 大江の初期作品の登場人物たちについて「壁のなかの人間」の状況を執拗に追及するところに、若い作家は文学的出発点を持った。 で、小説の主人公「僕」は、この作品の壁を取り仕切る村長から最後にこう言われます。「いいか、お前のような奴は、子供の時分に締めころしたほうがいいんだ。出来ぞこないは小さいときにひねりつぶす。俺たちは百姓だ、悪い芽は始めにむしりとってしまう」(P312) まあ、このセリフがこの小説の題名の由来なのだと思いますが、当然ながら少年の「僕」は、むしられ撃たれる前に、この村長の手をのがれ逃げ出わそうと奮闘するわけなのですが、はたして、脱出は可能なのか、出発はやってくるのか、行き先がどこなのか、まあ、そのあたりは本作を読んでいただくほかありませんね。
で、60年後の村上の作品で語り手である「ぼく」にこのセリフを口にした少女がどうなるのか。そっちの方はシマクマ君自身もまだ読んでいないので知りません。
しかし、読み手であるボクが生きてきた60年ほどの世界が、村上春樹と大江健三郎という二人の作家によって、ほぼ同型のメタファーで語り続けられてきたのだということの、いかにも手遅れな「発見」は、多くの人には、「何を今更!」 なのかもしれませんが、ボクにとっては新たな事件であったことを、とりあえず、書き留めておきたいと思います。