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2020.09.25
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カテゴリ:管弦楽団
Frédéric Chopin Piano Concerto N.º 2 Op. 21 in F minor: Maestoso-Larghetto-Allegro Vivace-Arthur Rubinstein, Pianist
London Symphony Orchestra conducted by André Previn (HD video)

出生名Artur Rubinstein(Arthurではない)としてウッチのユダヤ人の家庭に生まれた[4]。8人兄弟の末子で、父は富裕な工場主であった[5]。ルービンシュタインが2歳の時に姉のピアノのレッスンを聴いて、即座にその演奏を魅惑的に再現して見せ、絶対音感とともにピアニストとしても並ならぬ才能の持ち主であることを証明した。ルービンシュタインも4歳の頃までには自ら神童であると自覚していた。ハンガリーの著名なヴァイオリニストであったヨーゼフ・ヨアヒムは4歳のルービンシュタインの演奏を聴いて強い印象を受け、家族に次のように話したという。「この少年はとても偉大な音楽家になるかも知れない ― 確かに彼には才能がある・・・本格的に勉強する年齢になったら私の所に連れて来なさい。私は彼の音楽教育を監督することに喜びを感じることになるだろう」。1894年12月14日、7歳のルービンシュタインはモーツァルト、シューベルト、メンデルスゾーンの作品でデビューを飾ったのだった[6][7]。

ルービンシュタインは10歳の時にベルリンに移って音楽の勉強を続け、1900年、13歳の時に初めてベルリン交響楽団と共演を果たす[1]。ヨアヒムはルービンシュタインのピアノの師としてカール・ハインリヒ・バルトを推薦した。

さらに、ルービンシュタインは1904年にパリに行きフランス人作曲家のサン=サーンスやポール・デュカス、ラヴェルらや、ヴァイオリニストのジャック・ティボーと面会する。ルービンシュタインはサン=サーンスの前で、《ピアノ協奏曲第2番》を演奏した。さらにユリウシュ・ヴェルトハイメル一家を通して、ヴァイオリニストのパウル・コハンスキ、作曲家のカロル・シマノフスキと親交を結んだ[8]。

1906年にニューヨークのカーネギー・ホールで行なったリサイタルは聴衆に支持されたようだが評論家から批判が相次いだため4年間、演奏活動を中止して自らの技巧・表現に磨きをかけた。ルービンシュタインはその後、アメリカやオーストリア、イタリア、ロシアで演奏旅行を行なった。しかし1908年、困窮と絶望と借金取りの厳しい取立てに加え、ベルリンのホテルの部屋の立退きも迫られたルービンシュタインは首吊り自殺を図るが失敗してしまう。1910年、第5回アントン・ルービンシュタイン国際ピアノコンクールで優勝するがユダヤ人だったために審査員や聴衆から人種差別を受けたという[7]。1912年にはロンドンデビューを果たし、その後同市南西部のチェルシーに定住する。同地のドレイパー兄弟のサロンでコハンスキ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、ジャック・ティボー、パブロ・カザルス、ピエール・モントゥー、などと親しく交わった[8]。

ルービンシュタインは第一次世界大戦中は主にロンドンに暮らし、ウジェーヌ・イザイの伴奏者を務めた。1916年から1917年までスペインや南米を旅行し、同地で熱烈な歓迎を受けた。また、ルービンシュタインも同時代のスペインや南米の作曲家に熱狂して多くの新作を初演することになる。1932年にしばらく演奏生活から隠退して、数年のあいだ演奏技巧やレパートリーの改善に取り組んだ。ルービンシュタインはこの年に指揮者のエミル・ムイナルスキの娘であるアニエラと結婚し、4人の子供をもうけた。娘のエヴァは神学者・聖職者・反戦運動家のウィリアム・スローン・コフィン師と結婚し、息子のジョンも俳優・作曲家となった。第二次世界大戦中はアメリカに暮らし、1946年にアメリカ国籍を取得する[9]。

ルービンシュタインはそのレパートリーの中で、とりわけロマン派の作品を数多く録音した。ルービンシュタインが死んだときのニューヨーク・タイムズの記事には、「ショパンは彼にとって特別の存在だった。多くの人々によって、彼が比類の無い存在として考えられているのは、ショパン弾きとしてのそれである」とまで書かれた[1]。ルービンシュタインはエチュードの一部の作品を除く、ショパンの全作品を録音している。また、ルービンシュタインは、スペインや南米の作曲家、さらにラヴェルやドビュッシーといった、20世紀初頭のフランスの作曲家の最も早い紹介者の一人であった。さらにルービンシュタインの同胞である、シマノフスキの最初の擁護者でもあった。ルービンシュタインはスクリャービンとの対話の中で、最も好きな作曲家としてブラームスの名前を挙げ、スクリャービンを激怒させたことがあったという[10]。

1960年、ショパン国際ピアノコンクールの審査委員長を務めた。このときの優勝者がマウリツィオ・ポリーニであり、ルービンシュタインのコメント「我々の誰よりも上手い」により大変有名となった。だが1976年、「飛蚊症」が原因による視力喪失により引退となり、ルービンシュタインの最後のコンサートはロンドンのウィグモア・ホールで開かれた。

ルービンシュタインは8ヶ国語を流暢に話したという[9]。また、ルービンシュタインは恐るべき記憶力の持ち主で、ピアノ曲だけではなく膨大な数のレパートリーを持っていた[9] 。自伝によると、ルービンシュタインはフランクの《交響的変奏曲》を、コンサートへ向かう列車の中で、ピアノ無しで暗譜した。また、ルービンシュタインは自らの思い出を、まるで写真のように例えば楽譜について語る時は本題とは関係のない譜面に付いたコーヒーのしみについてまで克明に記述した[11]。

またルービンシュタインは聴覚も非常に発達しており、心の中で全ての交響曲を演奏することが可能だった。またルービンシュタインは自伝の中で、「朝食の時、私は頭の中でブラームスの交響曲を演奏していた。その時電話が鳴ったので、受話器を取った。30分後、私は電話で話している間も演奏が続いており、今は第3楽章が演奏されていることに気づいた」と述べている。ルービンシュタインの友人達はよく、オペラや交響曲の楽譜から適当なものを抜き出し、ルービンシュタインの記憶力によって演奏させようとした[1]。

1973年に自伝「華麗なる旋律」を執筆し、1982年にジュネーヴで就寝中に息を引き取った[1] 。遺体は火葬され、その遺灰はルービンシュタインの遺志により1年後にエルサレムに埋葬された。





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最終更新日  2020.09.25 11:22:15
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