カテゴリ:雑感
この4月に隣の県の事務所に転勤した同僚が自殺した。原因は不明。今日はその葬儀に出席した。
町の斎場での告別式は初めての経験だったが、斎場での葬儀というのはこんな風に行われるのかと半ばあきれ半ば感心して見ていた。現役の職員の葬儀ということで参列者は職場関係者が半数以上を占めていた。当然のことながら見知った顔も多く、そこここでお互いに挨拶を交わしている。こんな時でないと逢うことのない人も多いからだろう。 弔事が述べられる。最初は本社人事課長が読み上げる本社社長からの弔事だった。社長はこの8月に他企業から就任した人物で故人のことなど何一つ知らないはずだが、弔事はまるで旧知の部下を語るようによくつくられていた。これも演出なのだろう。次は所属の事務所長。彼もこの4月に着任したばかり。本来地元の人間ではないし旧知の間柄でもない。まだ身近に上司として接していただけ内容はましだというところだった。最後にやっと同じ学校を卒業し同じ会社に入った古くからの友人の弔事が述べられた。これはただ故人とのつきあいの歴史を順に話しているだけだったが、それだけに、かえってそれぞれのエピソードから故人の人柄がよくしのばれた。こういう場面では、人間はほんとうに上手に物事を描写し表現できるようになるものなのだなと素直に感動した。 しかしなぜ、弔事がこの順なのだ。本当に故人を悼むという考え方ならこれはまったくの逆ではないか。それにこの後も長々と本社関係や政治家、関連企業などからの弔電の紹介が続く。前に、冠婚葬祭っていったい誰のものなのだという文章を書いたことがあったが、まさにそれを色濃く感じる瞬間だった。 その後は斎主の入場から始まって読経、焼香、告別、最後に喪主からの挨拶、出棺、と順序よく流れるように儀式はすすみ、告別式は無事終了。棺と親族は火葬場へ向かった。 そのあとの斎場の風景は異様だった。会社関係の人間たちはすぐに立ち去ることなく、たむろし、お互いにまだしきれていなかった挨拶を交わしあう。それが延々と続く。だれもがお互いにお互いの顔色をうかがいながら立ち去るきっかけを探しているような、半分あきらめたような、そんな手持ちぶさたな居心地の悪い時間が過ぎ、あちこちから挨拶を受けていた会社幹部が立ち去ったとたんに、その集まりは解けて駐車場へ向かう列となった。 こんなところまで、会社社会のつきあいや義理、建前がまかり通っている。その徹底さに、あきれかえるという感情を通り越した、一種清々しいまでの感動を覚えた。これが日本の会社組織の人間関係なのだ。 故人を悼む気持ちは確かにあるだろう。けれど、それよりもこの機会にかこつけて社会的な関係や自分の地位の確保を確実にするための場、そして義理を果たす場、義理をつくる場としての意味合いの方がうんと大きくなっている。そのことに誰も言及しないしおそらくは気づいてもいない。 意地悪く考えるなら、本来なら家族に送られることで十分なはずの葬儀というセレモニーを社会やコミュニティーが食い物にしている。そんなものなのだろう。それが社会やコミュニティーが存続していくためのやり方なのだ。 自分が死ぬときも、やはりこうやって生き残った人間たちの役に立つ場を提供してやらなければならないのだろうか。それが社会人としての義務なのだろうか。葬儀などしてもらわなくてもいいというのは、自分勝手なわがままなのだろうか。 何の疑問もなく冠婚葬祭の儀式を行っている人たちは幸せだと思う。ひとたび、その意味に疑問を持ったとき、さまざまな想いが心をよぎる。 自分の納得のいく葬儀の仕方というのは、いったいどういうものなのか、死期が近づく前にしっかりと決めておきたいと思う。 朝食:ベークドバナナ、ミルクココア、ヨーグルト 昼食:青菜のスパゲッティ、サラダ、アップルティー 夕食:麦飯、とうふ、キャベツ卵炒め 官職:酒まんじゅう、ミルクココア お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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