了頓図子町【図子/辻子/ずし】の廣野了頓邸跡
★★★画像容量が一杯なので「はてなダイアリィ」に画像をリンクしました。★★★★★★小さい画像からリンク先に飛びます。よろしくお願いします。 ★★★京都市内の中京区には、了頓図子町(りょうとんずしちょう)って云う名前の町(ちょう)があります。管理人が前に住んでいた町内には、鉄砲図子通りがあり、図子が付いていました。あと、管理人が知っているのに、蛭子図子通り、膏薬図子通りとかがあります。それらは、また後日、探訪してみます。さて、室町通り(南北の通り)と新町通り(南北の通り)の間にある、通りに、衣棚通り(南北の通り)があります。この衣棚通りは、北は、上長者町通り(東西)から始まり、南は、六角通り(東西)で終わります。ですが、最後の辺りの、三条通りから六角通りへの道幅が極端に狭くなります。(約2m)で、この通りは了頓図子と、呼ばれ図子の両サイドは、了頓図子町になっています。ここには、「廣野了頓邸」があったところで、その私有地を抜ける道であったらしいところから、この名前が付いたのです。★図子とは小路、幅の狭い道という意味です。★高札に書かれてある文です。下記(原文のまま)。廣野了頓邸跡(ひろのりょうとんていあと)将軍御成門跡(しょうぐんおなりもんあと)この一帯には、安土桃山時代の茶人、廣野了頓の邸宅があったといわれる。廣野家は足利家代々の従臣で、将軍義輝の時に、この地を領有した。市井人となった、了頓が、ここに茶亭を構え、茶道を広め、豊臣秀吉もしばしば訪れたという。また、山科言経(やましなときつね)、「言経卿記」にも、文禄3年(1594年)5月11日に、徳川家康がここを訪れ、言経、古田織部らも同席して、茶の湯を楽しんだ様子が記されている。明治維新前までは、六角通に面して、表門があり、裏門まで一般の南北通り抜けを許したため、了頓辻子と呼ばれる小路が成立した。六角通面の町が玉蔵町(たまくらちょう)であるため、玉蔵辻子とも称されたこの路は、夜間には通行を禁じ、表門を将軍御成門と呼んだといわれる。 京都市人気ブログランキングに参加しています。ブログ名が長過ぎたので、登録拒否され、やむなく、【TREK-Y5】にしました。検索は【TREK-Y5】でお願いします。ぽち、ぽちっとよろしくお願いします。《管理人》