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カテゴリ:My Shop
今日は私のお店の店長の命日。
お店の名前は店長が榮子さんだったので1文字を取ってSAKAEにした。1号店はセントラルに開店し1年半で閉店。挽回を狙って今の店を開店させた。実は私は会長、店長が無くなってから今の店の社長兼店長になった。 2004年の11月に会長が他界。店長と会長は、私と会長の付き合いよりも長く、会長の事を本当に慕っていた。彼女に会長が無くなったことを連絡すると、「あ~ぁ駄目でしたか。。。寂しいですね。。。本当に寂しい」その言葉は今でも私の頭にこびりついている。その後彼女は会長を追う様にして翌月12月の今日に他界。膨張した心臓疾患による急性心不全。享年72歳だった。 突然だった。 「バス停にいるのですが、今日は本当に気持ちが悪いので家に戻って休ませて下さい」との電話連絡。 「そうですか。クリスマス真っ只中で健康状態が芳しくないのも良くないので3日ぐらい休んだらどうですか?」と私。 「ありがとうございます。お言葉に甘えます」と店長。 これが最後の電話になるとは予想がつくはずもない。 翌日、お店に電話をいれた。 「店長がいなくて忙しいなら俺がヘルプに行くぞ」と私。 「店長。。。昨日死んじゃった」と主任。 状況を把握し自分の気持ちを整理するのに数分時間を要した。その時間は本当に長かった記憶がある。会長はもういない。自分で何とか収拾をつけなければ。。。店に真っ先に飛んでいった。スタッフに涙は無いものの全員落胆の色は隠せない。 彼女は25歳の時に台湾人のご主人と結婚をし長野県上田市から香港に来た。ご主人が他界し、2人の男のお子さんを授かったが、独身の次男が心臓疾患と慢性的な骨疾患で70歳になっても仕事を続けざるを得なかった。1960年代後半頃から香港日系百貨店の食品売り場に惣菜もどきのお店が出来、その仕事に携わった。最後の仕事場が私のお店だ。 日本の惣菜市場は大きく、販売店をバックアップする惣菜加工会社、半製品加工会社が充実しているが、香港はまだ小さい市場。1つのアイテムを作るのに素材を探し、洗う、切る、剥くという作業からはじめないといけない。その過程を30年以上見てきた彼女は在香港日本惣菜のパイオニア的存在と言っても過言ではない。 2005年になり、ここからが本当に辛かった。今のお店を開ける為に準備されたお金はゼロ。開店から4ヶ月ぐらいは業者に対してごまかしが効いたが、未払いが6ヶ月に近づくにつれそれも無理な話。各社に頭を下げて廻ったが、セントラルのお店を潰し不義理をしている業者は全く取り合ってくれない。1人の株主にも泣きついたがそれも駄目で私のしつこさに逆切れをされ「店長が死んだのは年齢にそぐわない過酷な労働を課したお前に責任がある。お前が殺した」まで言われた。 もう1人の株主が私に「自分で会社を作って、今の惣菜屋をあなたの会社にしなさい」今のDOMONの社長だ。屋号はそのまま残し、会社名を店長と会長の名前を1文字ずつ取って「榮原有限公司」にした。スタートして3年。やっと黒字がでた。私にとっては本当に長い3年だった。 「店長。会長。SAKAEはやっと黒字です。昨日はみんなにボーナスをあげました。みんな喜んでくれました。次からの利益は私がとってもいいですかね? ^^:」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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