「同じ義務と責任を負わせるというのは、同時に同じ権利を与えるということだ」
ぼくはたまに英語に窮したときに、なんで第二次世界大戦後、アメリカは日本を植民地化しなかったんだろうって思うことがある。そうしていたなら英語で苦労することなど無かったからだ。科学的にも日本語という言語は韓国語と並んで、英語から一番遠くにある言語らしい。まあそれはいいとしても、「なんで第二次世界大戦後、アメリカは日本を植民地化しなかったんだろう」という疑問にこの物語では以下のように答えている。「同じ義務と責任を負わせるというのは、同時に同じ権利を与えるということだ。アメリカの人口は今でも二億六千万人、日本は一億二千五百万人だ。あわせて考えれば国の人口の約三分の一、それが一つの州に固まり、彼らは独自の文化を持ち、別の言葉を喋る・・・」「しかしアメリカの一部になったとしたら、言葉や文花だって」「そりゃ変わるだろう。人口のある程度はメインランドに流入し、拡散しもするだろう。しかしもしそうなったとすれば、日本人というのはわが国のマジョリティ、つまり人種の最大勢力になっていただろうね。今ごろは、戦争に負けた日本人から大統領が出ていたとしても不思議は無い。」そうなのだ。日本人の人口はアメリカの約半分、もしその全部がアメリカに組み込まれれば、間違いなく人種という観点ではマジョリティになる。日本人がアメリカの大統領になるなんて、痛快という感じもするけど、さすがのアメリカ人も、国人の大統領は許容しても日本人は許容できないだろうな。最近、宇多田ひかるが全米デビューを果たしたのであるが、ぼくはアメリカという市場がそれほど魅力的なのか疑問に思う。数の上では日本の二倍でしかない。実際、日本でだってプラチナディスクは何枚も生まれているし、B’zの儲け方も半端じゃない。純粋に市場のキャパからすれば、日本だけでも充分オイシイのではないかと思うときがよくある。実際、アメリカやヨーロッパの企業は日本というマーケットに大きな可能性を見出している。実は日本という国に対しての評価が一番低いのは、何を隠そう日本人そのものではなかろうか。自分たちに対しての評価が低いから、これだけ数で圧倒していても、台頭に国際社会を渡っていくことができない。その数の論理で行けば、中国にはまったくかなわないとしても、ぼくは日本はアジアの雄として、世界を相手に真っ向勝負を挑んでいけるだけの実力はあると思う。「権利」と「義務」「責任」は対である。「権利」だけを主張する時代はとうに終っているように思う。「日本」としてどのように国際社会に対して「義務」と「責任」が果たせるのか。それは21世紀を迎えた日本がまず真剣に考えていかなければならない問題ではなかろうか。