「“How are you?”という表現にすら、なかなか慣れることができなかった」
柄谷 行人著 『反文学論』“How are you?”“I’m fine, thank you. How are you, too?”“I’m fine, too. Thank you.”これは言わずとしれた、定番ともいえるべき英語での挨拶である。そう、定番なのだ。なにも考えずに丸暗記して、“How are you?”と聞かれたらこのように答えればいいだけの話である。至ってシンプルだ。ところが慣用句となった言葉の意味をいちいちまじめに考えると、急に答えるのが難しくなったりする。“How are you?”とは日本語にまじめになおしてみれば、「あなたはどのようですか」となる。それに対していつも答えはfineでいいのだろうか。いいわけがない。気分なんて毎日違うものである。でもそんなことくそまじめに答えて欲しいなど、聞いた本人も期待していない。いやむしろながながとその日の気分を語られた日には、早く終らないものかとイライラしてしまう。実はぼくはどちらかというとこの題材で日記を書いていることからも察することができるように、言葉をまじめに解釈するタイプだ。だから“How are you?”にもなかなかなれない。毎日同じ答えを言うことにすごく抵抗を感じてしまう。実はぼくは、日本語の社交辞令というものに対しても同じようにまじめに言葉を捉えてしまうことが多い。前にお笑いのネタで、「また今度、遊びに行きますよ」という社交辞令に対して、大声で「いつだよ?いつくるんだよ?」って聞いていたのがあったが、まさにそんな気持ちになってしまう。これは意外と厄介なのである。お世辞や社交辞令が言えなくなってしまうのだ。お世辞や社交辞令というのは言って見れば公然と嘘をつくことである。が、嘘がいつも悪いというわけではない。嘘だからこそ社会の役に立つことだってある。実際、お世辞や社交辞令は社会における人間関係の潤滑油的働きをしていることは否定できない。挨拶と同じで、それを言っていれば丸く収まるのだ。そう、だからそれが言えないぼくは、至極すわりが悪い時を多く経験する。オトナになれよといわれるかも知れないが、無理なものは無理なのだ。そんな自分も嫌いではない。だから、お世辞はいえないけど、その人のいい部分を見るように心がけて、本気で褒めるようにしてはいる。それがやっぱり一番楽だな。