2010/12/23(木)12:15
士道惨なり(22)
「士道惨なり」(22)
(六)
黒岩藩は緊迫につつまれていた。稲葉十右衛門は配下を動員して弦次郎
の探索に努めていたが、それも虚しく弦次郎の消息は不明のままであった。
何時しか藩内の空気も弛緩し、殿をはじめとし重役も胸をなでおろしていた。
併し、弦次郎は水面下で動きだしていたのだ。
稲葉十右衛門は、そうした空気の中で弦次郎の動きを不気味に感じとって
いた。弦次郎がこのまま動きを止めるとは考えられないのだ。
季節は秋を迎え、朝晩の冷え込みが厳しくなった。
冷たい風が吹く夜の深更、足音を忍ばせひとつ影が焼け跡に近づいていた。
影は迷うこともなく粗末な墓標の前にうずくまった。
「親父殿」 微かな呟きが闇に吸い込まれた。
影は森弦次郎であった。彼は地面に手をつき、無残な最期を遂げた妻子と
父母に語りかけていた。
「おおう-」 獣のような呻き声が風に乗って流れた。
冷たい地面の感触が彼の心を苛み、いっそう憎しみ燃え滾っている。
冤罪の罪を家族にかけ惨殺したた訳が今となって分かった。
全てが稲葉十右衛門が仕組んだ陰謀と濁流に流され気づいたのだ。
だが親友である自分の命を奪わんとした十右衛門の心が、理解出来なか
ったが、傷が癒え、彼は何度となく城下に忍び込み全てを悟ったのだ。
奴こそが真の隠れ忍びであったのだ、稲葉十右衛門の野心と甘言に載せら
れた殿の忠義と筆頭家老の望月大膳を呪った。
黒岩藩を潰す、これが弦次郎の望みとなった。彼はその機会を執拗に
狙った。その機会が訪れようとしていた。
幕府の要人が京からの帰り道に、美濃街道を通過すると知ったのだ。
弦次郎は彼等に書状を送った、黒岩藩の内情を綴った内容である。
その時に恨みを晴らします、弦次郎は灰となって眠っている家族に
語りかけていた。孤剣でもって黒岩藩と刺し違える、それが望みであった。
彼は声なく涙を滴らせ哭いた。
それまでは稲葉十右衛門を恐怖におとしめ、殿はじめ重役等に己らの
無能を知らせてやる。弦次郎は地下の家族に誓い、孤影を闇の中に消した。
大目付の稲葉家に目付役人が血相を変えて駆けこんだ。
「何事じゃ」 十右衛門の脳裡に不安がよぎったが、そげた頬をみせ配下
の者を見廻した。
「申し上げます。目付役の岩瀬一馬、山下鵜次郎殿が斬殺されておりました」
「なんと」 稲葉十右衛門が天を仰いだ、両人は今井田宿まで自分と同行
した江戸詰めの目付役人であった。
とうとう弦次郎が牙を剥いたな、瞬時に悟った。
「両人の許に案内いたせ」
稲葉十右衛門が死骸のある場所に駆けつけ、眼を剥いた。一人は右首から
袈裟に斬られ、一人は左首を袈裟に斬り裂かれていた。
その傷跡の凄さは一目で弦次郎の手によるものと察しられた。
「浅井弾之助は居るか?」 「はっ、ここに居ります」
「今度はお主か、わしの番じゃ。気をつけよ」
十右衛門が猛禽のような眼差しで注意を与えた。この浅井も殺された両人
同様に、稲葉十右衛門と同行した者であった。
「はっ、心得ております」 浅井弾之助が不敵な面をみせ肯いた。
この知らせを受けた重臣と藩庁は恐怖に震いた、恐れていた事が事実と
なったのだ。
直ちに藩内の警戒が高まり、町角には臨時の番所が設けられた。
そうした黒岩藩の狼狽をあざ笑うように、弦次郎は動きを止めた。
黒岩藩にとっての悲劇は、幕府要人の件をまったく知らなかったことである。
稲葉十右衛門は厳重な身形で配下を引きつれ、昼夜に渡って藩内を巡視して
いたが、弦次郎の隠れ家を見つけ出すことは出来なかった。
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