|
カテゴリ:古書
ある人真剣の時は剣術習いある人も習い無き人も
ただ同じ。 慮知もなく無分別も敵を打ちひしがんと思う外なし。 功も不功もここに至るは志替わる事なし。 さり乍ら勝負の是非は不断習い付けたる徳、癖のご とく。 我も知らずその時に出会って勝負ありといえども、 志は功も不功も差別なしと云えり。 その理考えがたし。 勝負の是非は運なり。 心の正しき事を知りたき事なり。 無心というに二つのたがい有るべし。 剣術の習いより無心に叶う道理有りと、 敵と打ち結ぶ生死の念におわれ事にうばわれて無心 に成る、との二つなり。 生木と朽木とのごとし。 我と無心に成るべきようもなし。 ある人が言った。 真剣勝負の時は剣術を習っている人も習っていない 人も同じだ。 ただ必死になって相手を打ちのめすのみだ。 技の上手も下手も、必死さには替わりがない。 しかし、技など普段から習っていると変な癖 がついていてかえって不利になる。 ある時、突然そんな場面に出会えば、ただ必死にな って打つのみで、技の上手下手など関係ない。 でも私はそうは思わない。 勝負は時の運である。 ではあるが、その時、剣術を学ぶ者は、正気である。 無心と言っても二つある。 剣術の修練によって無心に動くこと。 必死になって我も忘れて動くこと。 生木と枯れ木の違いようなものだ。 自我を保ったまま無心になる。 こんなことは素人には真似できない。 よくある議論だと思う。 何十年と武術を修練しても、何も修練していない者に 負ける。 はっきり言ってこれは当然のことだと思う。 武術というものは、やりかたを学んでいるうちは、 負けてしまうものである。 ありかたを学び身に着ける。 それではじめて、無鉄砲に暴れまわる者を制することが できる。 武術というものは、必死に向かってくる者を相手に、芸術 を行うもの。 そんな命のやりとりをする修羅場を芸術化させようなんて 試みるのだから、失敗してあたりまえだと思う。 しかし、武術の姿勢と動きと心のありかた、それに人間と いう生き物を研究し尽くすことにより、芸術と呼ばれるほ どの技を体現できる。 私はそんな風に考えています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.10.02 19:55:58
コメント(0) | コメントを書く
[古書] カテゴリの最新記事
|