ないものねだり

2012/01/19(木)21:16

世界の中間でうどんを食う...

食べ物あれこれ(30)

アンカレッジ空港は、東西冷戦下の1951年に開港して、日本からアメリカ間や隣国カナダ、アラスカ州内の航空便を中心に、トランジット空港として随分賑わったんだ。 ロシアが、まだソビエト連邦と呼ばれた当時のこと... 最短距離のシベリア飛行ルートはソビエト当局から厳しく制限されていたから、 日本からヨーロッパへ飛ぶ定期路線は、東南アジアや中東、南欧の各都市を経由して、 20時間近くかかる"南回り"の路線と、ソ連領を迂回して北極圏を通過して飛ぶ、 ポーラルートと呼ばれた"北回り"の路線しかなかったんだ。    そんな世界情勢の中で、アジアの膨らむ需要増加に対応して、 アンカレッジ空港は給油にテクニカルランディング(寄港)する空港として、 西側の航空会社から利用されるようになったんだ。 70年代頃から、アンカレッジ空港は空の中継所としてトランジット客で賑わっていた。 とくに便数が多くて利用も多かった日本人のためには日本語のできる従業員がいた。 当時の砂は、ヨーロッパに短期赴任したり、出張したりすることが多かったこともあり、 トランジットで十数回利用しただろうと思う。 その度に、空港内にあったうどん屋で熱々のうどんを食べたことが懐かしい。 アラスカでうどん?って思うだろうけど、事実あったんだよ。 大きな白熊の剥製(ベタな話だね...笑)の直ぐ近くに、藍色の暖簾が掛かったうどん屋で、 従業員は陽気で話好きな日系のおばちゃんだった。 「いよいよ行くんだなぁ~」とか「ようやく返ってきたぁ~」とか、その時々に、 色んな事に思いを馳せながら口にするソウルフードだったと思う。 言ってみれば、日本とヨーロッパの中間点でうどんを食べるのは、 砂にとって特別な儀式のようなものだった気がする。 その後、アンカレッジ空港は航続距離が長くなった航空機の登場や、 1990年代の東西冷戦終結を境に、今ではほとんど利用されなくなって、 国際線のターミナルは旅客便が殆どないのですっかり寂れたと聞く。 多分、もう二度とアンカレッジに下り立つ機会もないだろうけど、 アンカレッジ空港は、砂にとって1980年代半ばの想い出の場所だ。 もしも誰か、あのうどん屋のその後について記憶のある人がいたら、 是非とも教えて欲しい♪

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