カテゴリ:エロっぽい雑学
江戸文化で、大奥を除けば吉原が一際華やかな世界だったのは間違いない。 ただ、現代人が遊廓に持つイメージと、当時の人が抱いていたイメージには、 かなりギャップがある。 花魁(おいらん)とは、吉原遊廓の頂点に君臨した超高級遊女のこと。 吉原では花魁、上方(京都)では太夫(たゆう)、その他、とくに美貌を讃えたもので、 傾城という呼び名もあった。←前のblogのお話はココまで。 元々、花魁という呼び名は、江戸吉原になかったというのが定説。 また、花魁の呼び名の由来は、遊廓に奉公していた年若の禿(かむろ)や新造が、 可愛がってくれる太夫のことを「おいらんちの姉さま」と伝えたことから、 「おいらん」と呼ばれるようになったそうだ。 遊廓というと、陰惨な環境で酷い扱いを受ける女性と思いがちだけど、 実際、それほどネガティブな扱いは受けてなかったようだ。 むしろ、貧しい娘にとって衣食住に不自由せず、大金を貯めたり、 花魁や太夫という立身出世を目指すポジティブな生き方もあった。 吉原には、独自のしきたりや作法が数々あって、客もそれを了承して通った。 そもそもはじめての客は、芸者やたいこもちの芸を観て何時間も過ごす。 花魁が座敷へ来ても、離れた所に座って言葉を交わすこともない。 二度、三度と通っても、多少会話をしたり酒を飲んだりするようになる程度。 遊廓の客は、お目当ての遊女をひたすら待ち焦がれて、四度、五度と通い詰め、 仲良くなって遊女に気に入られてはじめて、そこで次の"逢瀬"を約束された。 こうして床を共にする仲になるまでには、かなりの忍耐と財力を要したんだ。 廓遊びは、一種の擬似恋愛のプロセスを楽しむ色合いが濃かった。 高級遊女ともなれば、金でカラダを許すではなく、 それなりの客をもてなすスキルが要求された。 だから、遊女も出世を目指すには素質も努力も必要だった... ちなみに、一流の遊女になるには、8才頃から修行がはじまるそうだ。 15才ぐらいまでは、三味線、琴、書、和歌、古典、生け花、茶の湯など、 今のキャバ嬢やガールズバーのお姉さんとは比較にならないほど、 しっかりと教養や行儀作法を身につけなければならなかったようだ。 さて、花魁が身に着ける衣装やかんざしは、どれも贅を尽くした一級品。 さらに、花魁の部屋は輸入物などの高級調度品が常に揃えられていた。 そんな暮らしを手に入れるまでの道は、相当険しいものだったに違いない。 吉原には数千人の遊女がいたけど、花魁は数名しかいなかったから、 花魁への道は、大店(おおだな)に勤務して大番頭になることと同じだ。 今日の砂浮琴の写真は、牡丹(ぼたん)の花。 牡丹は一年かけて蕾を宿し、咲いて五日ほどで散る。 砂の好きな花は、なぜか短命なものが多いな♪ 粋の文化は(其の3)へと続く... お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[エロっぽい雑学] カテゴリの最新記事
|
|