2005/10/24(月)09:34
もう一つの「ヤクソク」その56・・・佳織の涙
葉子への気持ちに区切りをつけて、ソンジェは自宅へ帰った。
「ただいま」
いつもより大きな声で、佳織に帰宅を告げる。
「おかえりなさい。どうだった?」
佳織が明るい顔でソンジェに問う。
「うん、予定通りのところまで終わった」
「すごいじゃない」
一晩中土に触れていた興奮が、まだ冷めていない。
「楽しかった。全然眠くないよ。朝まで土に触っていても飽きない」
「そう」
佳織の表情が曇る。
「ソンウを探しに日本に来る前に、利川でおじさんの仕事を手伝った。あのときみたいだ」
ソンジェの言葉をさえぎるように、佳織は言った。
「もうお風呂沸いてるよ」
佳織の声を聞きながら、ソンジェはまだ土に感触の残っている掌を見つめていた。
風呂からあがって、宗太が朝食を摂っている間に少し横になっていると、昨夜の疲れからかソンジェは眠ってしまった。
眠りから覚め、起き上がって佳織に聞いた。
「あれ、宗太は?」
「さっき幼稚園に送っていったわ」
佳織はソンジェに背を向けたまま答える。ソンウの写真を見ているらしい。
「ごめんね。遊ぶ約束をしていたのに忘れちゃった」
いつまでもソンジェのほうを向かない佳織を、ソンジェは不審に思った。
「佳織?」
「ソンジェ、話があるの」
ソンジェの方を向いた佳織の頬には、涙が伝っている。
ソンジェは驚いた。
「もう無理はしないで欲しいの」
「無理してない」
「うそ。ソンウの無念は私が一番よく知っているわ。同じ過ちはもう繰り返せない。私や宗太のことは大丈夫だから。今まで甘えちゃってごめんね。止まってた自分の人生取り戻して。あなたの夢を追いかけて。そして本当に欲しいものを手に入れて」
佳織の言葉に、ソンジェは混乱した。
「佳織・・・」
『どうして?やっと葉子さんへの気持ちを封印しようとしているのに。佳織と宗太のために生きようと思っているんだよ。それなのに、君は本当に欲しいものを手に入れろなんて言うのかい?』
佳織が哀れだった。そこまで思いつめていたなんて・・・。何といえばいいのか、ソンジェは途方にくれた。
そんなソンジェの心を見透かすように、佳織は買い物に出かけてくると告げて、出て行った。
ソンジェは重い足取りで「ゴールド・デビル」へと向かった。新宿の猥雑なざわめきも、今日のソンジェの耳にはまったく入ってこなかった。ドアを開けると、恭一が立っている。
「昨日は突然の休み。おとといは同僚を殴って早退とはずいぶん態度がでけぇよな」
「ヒョン。迷惑かけてすまない。これにはわけがあって・・・」
「女に振り回されるのもいいかげんしろ」
恭一はソンジェが葉子のために仕事を休んだことを知っていた。
「違う、彼女、せいじゃない」
「お前、今日帰っていいから」
「え?」
「3日間の謹慎処分。昨日とおとといの分も合わせて、来月の給料から引くから。自分の行動を反省しろ。ま、佳織が泣きついてきたら、考えてやってもいいけどな」
「ヒョン」
ソンジェが口を開いたとき、一人の中年の女が店に入ってきた。
「う~わ、ここなんか趣味悪いな」
開口一番、辛らつな言葉を吐いている。
ソンジェは彼女を避けるように事務所に行った。
電話が鳴っている。
「はい、ゴールド・デビルです。はい僕です。え。わかりました。1度家に帰ってから行きます。はい」
電話は安岡からだった。
安岡が請け負った茶わんの形成がほぼ終わったらしい。ソンジェが徹夜して手伝ってくれたことに感謝の意を表したいと行ってきた。葉子とまた会うかもしれない。ソンジェは少し躊躇したが、思うところがあり、行くことにした。
ソンジェが安土についた頃には、安岡のほかに葉子、由紀がそろっていた。
ソンジェは葉子と目を見合わせる。ソンジェに向かって微笑む葉子の無邪気さに、ソンジェは切なくなった。
安岡がグラスに赤ワインを注ぐ。
「本当にありがとうございました。どうやら納期に間に合いそうです。今日はささやかではありますが、私のお礼の気持ちをこめて、この会を設けました。まず乾杯しましょうか?」
グラスを顔の高さまで上げる。
「では、乾杯」
「乾杯」
カチンとグラスが音を立てる。
「ソンジェくん、ありがとう。今回は君が1番の功労者だ。どうだった?久しぶりの土の感触は」
「今でも指に・・・」
優しい土の感触がまだ残っている。その感触は、そのまま葉子と一緒に過ごした柔らかな時間の記憶だ。
「急ぐことはない。生きていくためには、時には通りたくない道を通らなくてはいけないこともあるんだ。いろんな事情があるだろうが、私はね、君の陶芸に対する情熱を信じているからね」
ある決心をしたソンジェにとって、安岡の温かい言葉は刃物になってソンジェの心に突き刺さる。
和やかな時間が過ぎ、安岡の催した宴もお開きになった。
由紀は夫からの連絡を受け、足早に帰っていった。
その後姿を見送って、葉子が口を開いた。
「じゃあ、私も帰るわね」
彼女の瞳を見つめながら、ソンジェは重い口を開いた。
「葉子さん、ちょっといいですか」
2人で肩を並べて歩く。いつもの公園についた。目ざとくベンチを見つけて、葉子は声をあげる。
「懐かしいなぁ」
今のソンジェにとって、葉子と過ごした思い出のベンチを見るのは辛かった。
葉子はベンチに腰掛けた。ソンジェはその横に座る。
「ねえ覚えてる?」
ソンジェの顔を覗き込みながら、葉子は微笑む。
「あれから5年経つのね。5年前の私は、まさか自分がこれほど陶芸に打ち込むなんて思っても見なかった。それもこれもあなたのおかげね。貴方が夢を追いかけることを教えてくれたの」
「僕も昨日葉子さんと一緒に陶芸がやれてうれしかったです」
ソンジェは昨夜のことを思い出しながら答えた。
「ねえ、ソンジェ。私も先生と同じだから。昨日の貴方、土に触れながら、本当にいきいきしてた。輝いていたわ。今すぐ続けろとはいわない。いろんな事情があるもんね。でも夢だけは捨てないでね。そうすればいつかまた・・・」
いたたまれなくなり、ソンジェは立ち上がった。
「ソンジェ?」
「僕、今日で陶芸やめます」
「え?どうして、なんかあったの?ねえ、どうして?」
葉子がソンジェの腕をつかんで、揺さぶる。
「宗太は、僕の本当の子どもではありません。弟のソンウと佳織との間に出来た子です。僕と佳織、結婚してません」
ソンジェは日本に再びやってきたときから、今までのいきさつを話した。
葉子は目を潤ませながら聞いている。
ソンジェは一番言いたくなかった言葉を、葉子に告げなくてはならなかった。
「僕、佳織と結婚します。佳織と宗太、3人で本当の家族になります」
言ってしまった。これでいい、これでいいんだと、自分に言い聞かせた。
「そしてもし葉子さんと会うことが佳織を傷つけることになるのなら、僕は・・・僕は2度と葉子さんに会いません」
葉子はただ黙ってソンジェを見つめている。
『葉子さん、もうこれ以上僕を見つめないで。今言った言葉を撤回して、貴女を抱きしめてしまいそうになるから.・・・』
ソンジェは葉子の視線を振り切るように、彼女に背中を向けた。
そして一歩、また一歩と彼女から離れていく。
『葉子さん、さようなら・・・』