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Anemaziro~アネマジロ的考察~

Anemaziro~アネマジロ的考察~

彦坂が昭和を辞めた訳

2003.10.23掲載

~彦坂眞一郎 書込みより~

突然ですが、10月17日を最後に、長年つとめていた昭和音楽大学を退職しました。じつは、何年も前にも一度やめようと思い、M先生に相談した事もあったのですが、その時はその先生ご本人がやめられる決意をかためた後だったために、僕はやめるわけにいかなかったのです。一度に二人の先生がやめるのはさすがに避けなければならず、僕はもうしばらく頑張る事にしました。
M先生がやめられた後、僕は週に3日レッスンをしていました。僕の家は千葉県の松戸市、学校は神奈川県の厚木市にあります。電車での移動でも2時間30分かかり不便なため、車での移動を選びましたが、ご存じの通り東京を車で横断することは、時間的にかなりの負担でした。自分の練習時間を確保すべく、月3万の安いアパートを借りて半身赴任の状態が何年かつづく事になりました。はじめのうちはそれでも良かったのです。一人暮らしを経験していない僕にとっては、新鮮で楽しい生活でした。
学生のレベルも上がり、人数も年々増えて行きました。多くの学生が僕のもとで音楽を勉強すべく、昭和を目指してくれました。学校側も僕の業績を認めてくれ、今年度から非常勤から常勤にしてくれました、ただし週に4日出校すると言う条件つきで。。ご存じの方も多いと思いますが、昨年度から桐朋短大にも行っていましたので、今年の4月からは週に5日、二つの学校で教える事になってしまいました。土日は松戸で受験生のレッスンです。教えていない日が一日もなくなりました。
日曜の夜厚木のアパートへ向かい、金曜の夜家族が待つ松戸へ帰る。続く土日は松戸でレッスン。日曜の夜また厚木へでかける。
ずっと考えていました、「これは僕がなりたかった自分の姿だろうか?」

今年の春、上の息子(8歳)にチックの症状がでました。やさしく、感じやすい子です。夫婦で、協力してあまり厳しくしつけないようにしていたら自然におさまりましたが、9月に入り、僕がまた学校へ行くようになって再発しました。そして今月に入ってからはいっそう強い症状へ移行しつつありました。思えば、この子が産まれる前から僕は家に落ち着いて居られない生活になってしまっていましたし、ここ何年かはほとんどの夜は家に居ない日々でした。満足するまで遊んであげた事がほとんどないのです。彼は寂しさを一人で必死に耐えていたのです。このような生活が長くなると、夫婦の会話さえもあまり無くなってきてしまっていました。厚木の方へ家族で引っ越そうかと考えてもいましたが、義母がクモ膜下出血で倒れ、不自由な体となってしまったため、家内は実家に近い松戸を離れる事ができなくなりました。僕は収入の為にこの生活を続けるか、家族と過ごす事を選ぶべきか、ずっと苦しんでいたのです。

演奏技術の方も、本番で人に気付かれる一歩手前まで落ちてきている事も、もちろん退職した大きな理由です。このままでは、演奏家では無くなってしまう事が、はっきりと分かったのです。僕はまだ演奏がしたい。教える事は、やりがいのある楽しい事ですが、僕の場合、あまりにも人数が多すぎました。今すぐ練習を再開すれば、まだ間に合うと思うのです。少なくとも、まだ上達する意欲のかけらが残っているうちに、すぐにでも始めなければならないと悟ったのです。

演奏の事、家族の事。とりわけ大切な息子たちのために、僕は松戸に帰りました。みんなぎりぎりまで頑張りました。もう時間がなかったのです。

誰に相談しても、「ちょっと待って!」と止められるのが分かっていましたから、誰にも相談しませんでした。収入の事、残される学生たちの事。でも、もう時間がなかったのです。

今、僕はとても満ち足りています。家に帰り、家内に「学校を辞めてきた」と告げると、家内は一度だけ「え?!」と大きな声をあげましたが、訳を話した後は大喜びでした。息子には「お父さん、もうずっとこのおうちからお仕事に行くよ。毎日帰ってくるんだよ」と告げた時に、息子の顔に広がった笑顔を、僕は生涯忘れません。嬉しい時の顔って、こんなふうになるのかって、初めて知った気がしました。
「お金は去ったけどお父さんが帰ってきた!」(笑)

長年お世話になった昭和音大のみなさん、ありがとうございました。門下生のみんな、本当にごめんなさい。僕はこの道を選びました。

さしあたって、桐朋短大とTQの予定を残して、ほとんどの予定が無くなりました!


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