すりいこおど-1970年代周辺の日本のフォーク&ロック

2017/05/31(水)15:30

西岡恭蔵-07/1973年

1973(11)

72年9月25日、福岡風太の野望がついにかない、ごまのはえがベルウッドからシングル デビュー。メンバーは末長博嗣(v)、伊藤銀次(g)、角谷安彦(b)、藤本雄志(k)、上原裕(d)。 「留子ちゃんたら/のぞきからくり」ごまのはえ(72.9.25 ベルウッド OF-6) 画像は拾いものです 12月には、ごまのはえが出演する学園祭にやってきた三浦光紀と大瀧詠一に会い、 プロデュースを快諾した大瀧詠一を頼って73年3月に上京、福生に転居している。 このへんのいきさつは、過去ログ(2010.3.6)で取り上げている。 その大瀧詠一は、ソロアルバムを72年11月25日に発売。はっぴいえんどは10月にロスで サードアルバムを録音後、12月31日をもって解散。 細野晴臣は、結婚して転居した狭山のアメリカ村の自宅で、73年2月からソロアルバムの レコーディングを始めている。 ザ・ディランIIのデビューアルバム「きのうの思い出に別れをつげるんだもの」では、 楽曲面においても、ハーモニーにおいても西岡恭蔵抜きには出来得ないアルバムだった。 西岡恭蔵がベルウッドからレコードデビューし、ザ・ディランの二人も自力でやっていく べく、動いて行く。 72年10月、セカンドシングル「僕の街/ガムをかんで」をURCから発売。 2曲とも大塚まさじの作詞・作曲で、レコーディングにはごまのはえの角谷安彦(b)、上原裕(d) が参加。ディレクターは岩井宏、録音は吉野金次だ。アレンジの記載はないが、「僕の街」の ストリングスや「ガムをかんで」のピアニカ?アコーディオン?も、もしかしたら吉野金次が 手掛けているかも知れない(多才な人だ)。 2曲ともに、さりげない憂いを漂わせた素晴しい楽曲だ。 『僕の街が さんさんと 輝くような 昼が来て メインストリートも プラットホームも 今にも 人が あふれそうで 僕は どこへ 逃げようかって 迷ってしまうのです』 (「僕の街」大塚まさじ/作詞・作曲) 「僕の街/ガムをかんで」ザ・ディランII (72.10 URC URT-0071) 画像は拾いものです。「僕の街」はなぜかアルバムには未収録 73年に入り、セカンドアルバムを制作。バックには、豆でっぽうの北川雅則(g)、田中章弘(b)、 林敏明(d)が参加。他に東京サイドから、柳田ヒロ、渡辺勝、シンガーズ・スリーが参加。 ざっと取り上げると、A-1「ガムをかんで」(名曲)はシングルとは別アレンジで瀬尾一三が ストリングスアレンジで参加、A-2「茶色い帽子」は大塚まさじ/作詞、西岡恭蔵/作曲で 柳田ヒロのオルガンと、シンガーズ・スリーのコーラスで洋楽的盛り上がり。 A-3「君はきっと」は大塚まさじ+永井ようだけのメロウナンバー。A-4は「ディランにて」 収録の西岡恭蔵作「君住む街」。恭蔵サンとはまったく味わいが違います。当り前ですが。 ゲスト参加の友部正人のハーモニカが、全部持っていきます。すごいな、この人。 B-1はうららかな「こいのぼり」、西岡恭蔵作B-2「パラソルさして」(西岡恭蔵も次作で セルフカバー)、永井ようのギターソロB-3「夕映え」、大塚まさじ作のファンキーナンバー B-4「悲しみは果てしなく」、ラストはドリーミーな「すてきな季節に」。 前作とは一転、前向きで、笑顔になるアルバム、と言ったらいいだろうか。 西岡恭蔵はソングライターとしてスパイス的な存在というところだろうか。 「second」ザ・ディランII (73.5.5 URC URG-4020) アートディレクターは日下潤、写真は友部正人セカンドアルバム「にんじん」のおでん屋の オヤジを撮った北畠健三、ドリーミーなイラストは森英二郎。変則ジャケットの作りといい 素晴しい。 レコーディング中のインタビュー記事がある。大塚まさじ談。 「春一番が5月にあるでしょう。そんときにちょっと頑張ってみようかなーという感じですね。 そのために4月頃まで大阪で練習しようかなあーと思ってます。またこの時も手伝ってくれる <豆でっぽう>っていうバンドと練習してみようと思います(豆でっぽうは、オイルフット・ ブラザーズと改名)。それで春一番に備えてみようかなーという感じです」 (新譜ジャーナル ベストセレクション'70s より) かくして5月5〜6日、第3回春一番。 この実況録音盤については過去ログ(2009.4.25)で取り上げている。 西岡恭蔵は「プカプカ」「街の君」を収録。バンド編成のレコードとは違い、全くの 弾き語りだ。それもとてもスローな、静かな、静かな弾き語り。 こんな「プカプカ」もあるんだ、と思ってしまう。「街の君」はホントに心にしみる。 この日アルバムが発売になったザ・ディランII は出て来るなり、大声援と大ヤジが飛び交う。 アルバムに収録しなかった「時は過ぎて」からスタート。 『早いね 時の過ぎるのは みんな みんな 昨日のようさ 早いね 時の過ぎるのは みんな みんな 昨日みたい 2年前 君は 大阪で 裸の一人ぼっちさん 僕は胸に傷を負い 酒は その夜だけの夢を』 (「時は過ぎて」大塚まさじ/作詞・作曲) センチメンタル過ぎて、収録を見送ったのかも知れないし、収録後の作品なのかも知れない。 次の「ガムをかんで」ともに、大塚まさじの歌と長井ようのギターの絡みが素晴しい。 レコーディングメンバーである北川雅則(g)、田中章弘(b)、林敏明(d)が加わって「茶色い帽子」、 さらに中村誠一(ts)、山本剛(p)が入っての「悲しみは果てしなく」と盛り上がる。 しかし、相変わらずヤジもすごいな! ごまのはえは、大瀧詠一プロデュースのお披露目となったが、アルバムには未収録。 「'73 春一番コンサート・ライブ」より(73.8.25 ベルウッド OFW-9〜10) 西岡恭蔵と、奥さんのKUROこと安希子さんは、喫茶ディランで知り合ったとされている。 全くの推測に過ぎないが、時期的にはこの73年ではないかと思われる。 細野晴臣は、狭山のアメリカ村の自宅ではっぴいえんどの鈴木茂(g)、はっぴいえんどと同様 に活動を停止した、小坂忠とフォージョーハーフの林立夫(d)、松任谷正隆(k)、駒沢裕城(sg)を 招いて1ヶ月におよぶ合宿レコーディングを敢行している。 レコーディングに当たった吉野金次は、 『73年に、アンペックスの16チャンネルの2号機(レコーディングシステム)を3500万で 買ったんです。もちろん、全額借金でね。その前にアメリカに行って、カントリーだけを 録っている小さなスタジオを見てるんです。それを見たとたん、もうこれっきゃない、自分で 機材一式を買いこんでスタジオをつくろうと思ったわけで。フリーとしてリスクを背負って やっていくことにしたんです。 最初の仕事が「HOSONO HOUSE」ということになりました。それこそまだ封も切ってない 状態で、狭山にあった通称・アメリカ村(旧米軍住宅)の細野さんの自宅の居間に機材を セッティングして。曲はもう絶品だったけど、なにしろ狭いから、ベースのマイクを上げても ドラムの音が入る、といった状態でしたね。かぶりが多くって、もうカセットでとっている のとおなじなわけです。だから、ああいう一種独特の音になったんですね』 (「日本ロック・フォークアルバム大全」より 96年5月 音楽之友社刊) この洗練された牧歌性と、極めて考えぬかれたリズムを持つアルバムは5月25日、発売。 「HOSONO HOUSE」細野晴臣(73.5.25 ベルウッド OFL-10) 細野晴臣は、「HOSONO HOUSE」に参加した松任谷正隆(k)、鈴木茂(g)、林立夫(d)と 共に、プロデュースおよびバッキングを行うグループ"キャラメルママ"を結成。 西岡恭蔵がこのアルバムに魅入られたのか、詳しい事はわからないが、二人は急接近し 意気投合。細野晴臣が西岡恭蔵をプロデュースする手筈が出来ていく。 風都市は、原盤制作を手掛ける音楽出版社シティミュージックを設立。「HOSONO HOUSE」 から原盤に関わり始めている。さらにトリオレコードが新設するレーベルの、原盤制作からの 一切を任されることになり、"ショーボート"レーベルを発足。第1弾として、キャラメルママを バックに入れて南佳孝のデビューアルバム「摩天楼のヒロイン」(松本隆プロデュース)、 吉田美奈子のデビューアルバム「扉の冬」(吉田美奈子・細野晴臣・吉野金次プロデュース)の 制作にとりかかっている。 そして1973年9月21日、それらの人々を結集して文京公会堂で、はっぴえんど解散記念 コンサート「CITY-Last Time Around」を開催。 (詳しくは当ブログ2009.4.18「1973.9.21ライブ・はっぴいえんど」参照) 細野晴臣がプロデュースを受けることになった西岡恭蔵は、オイル・フット・ブラザーズの 田中章弘(b)、林敏明(d)、はちみつぱいの武川雅寛(violin)、駒沢裕城(sg)、岡田徹(k)、 アーリー・タイムズ・ストリングス・バンドの松田幸一(mouth harp)を従えて登場。 「街の君」「春一番」「サーカスにはピエロが」(この曲ではコーラスで三浦光紀、あがた森魚 も参加)、さらに新曲「街行き村行き」も披露。 LPには「街行き村行き」「春一番」が収録された。 同時期、西岡恭蔵はステージ101のLP「ぼくら心のふるさと」(1973年9月21日発売)に、 作詞参加している。 『僕の生まれた村 風ふくと つり橋のように ゆれる村 どんぐりの実ふる 秋の頃には 落葉たちが 恥ずかしそうに クルクル舞って 村はずれで 僕も待って まちぼうけばかりの村』 (「僕の生まれた村」西岡恭蔵/作詞 東海林修/作曲・編曲) また山平和彦がセカンドアルバムで西岡恭蔵作の「街の君」をカバーすることになり、 西岡恭蔵は編曲も手掛け、村上律(ag)、西岡恭蔵(ag)、林立夫(d)、渡辺勝(p)でレコーディング している。 山平和彦「風景」(73.7.25 ベルウッド OFL-12) さらに12月22日、名古屋市公会堂で収録された「ライブ!山平和彦」にゲスト参加。 「街の君」を西岡恭蔵のギターでデュエットしている。山平和彦のライナーによると 『あの日のコンサートに、西岡恭蔵が、黒のモーニングに蝶ネクタイで出て来たのには、 本当にまいってしまった。 およそ似合うはずのない服なので、滑稽だけれどもどことなく恭蔵らしくて愉快だった。 僕と西岡恭蔵との付き合いは、結構長くなる。そして、僕は恭蔵の良さを徐々にわかって 来ているみたいだ。第一、あのコンサートに大きな蝶ネクタイをして来て呉れた事だけでも 恭蔵は素晴しい奴だ。 もちろんそんな事だけではない。 今、僕の家のステレオの上には、恭蔵の「街行き村行き」のジャケットが飾られている。 いつも気に入っているレコードを置いておこうと写真立てみたいな感じのものを置いて あるのだが、このところずーっと「街行き村行き」だ。 前のアルバムもいいレコードだが、「街行き村行き」を聞いたら、誰だって恭蔵のやさしさに まいってしまうに違いない。』 山平和彦「ライブ!山平和彦」(74 ベルウッド OFW-15〜16) バックは、デビュー前のマイペースとセンチメンタル・シティ・ロマンス 10月末、池袋シアターグリーンで行われた「ディランズ・チルドレン」コンサートに あがた森魚と西岡恭蔵が出演。これが翌74年1月からの定期公演「ホーボーズ・コンサート」 に繋がっていくことになる。 ザ・ディランIIは念願かなって、URCからベルウッドへ移籍。 73年12月25日、細野晴臣と共に制作したアルバムからの先行シングル「街行き村行き/ うらない師のバラード」が発売された。 「街行き村行き/うらない師のバラード」(73.12.25 ベルウッド OF-21) 版画ジャケは森英二郎。画像は拾いものです そして74年1月25日、西岡恭蔵 with 細野晴臣名義でアルバム「街行き村行き」が発売される ことになる。 73年暮頃のレコードにおまけでついてきたベルウッドの74年版カレンダー (のちに復刻されたが、オリジナルカレンダーはベルウッドのロゴ入り) 西岡恭蔵サン、1999年没、享年50。岩井宏サン、2000年没、享年55。 山平和彦サン、2004年没、享年52。高田渡サン、20005年没、享年56。 かしぶち哲郎サン、2013年没、享年63。大瀧詠一サン、2013年没、享年65。 なんてこった。みなさん若すぎるよ。

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