|
カテゴリ:1969
![]() 60年代の主な音源としては、69年3月と4月のあんぐら音楽祭(89年にCD発売されたが聴いたことない・・)、68年8月京都・山崎の寺で行われた第3回フォークキャンプ、69年8月びわ湖バレーで行われた第4回フォークキャンプ(いづれも98年になってCD発売されたようだが、見たこともない・・)、この打上げとして8月17日に京都円山公園野外音楽堂で開かれた第4回フォークキャンプ・コンサート(69.12 URC URL-1005,6)、同8月に日比谷野外音楽堂で行われたフォークゲリラ集会(79.11 SM22-4026)、そして8月の第1回中津川フォークジャンボリー(79.12 SM38-4035,6)が残されている。 ライブ音源はその時代をいやがおうにも記録する。 『'69日比谷フォークゲリラ集会』。 草の根運動としてのベトナム戦争反対、70年安保への反対運動、そういった状況下で主に学生たちはフォークソングを歌うことで反戦を訴えはじめた。彼等はフォークゲリラと呼ばれ69年2月に大坂梅田地下で、3月には新宿西口地下広場で歌いはじめた・・・ 4月には1000人もの集会に拡大し、彼等の合唱が響き渡った。 5月に機動隊出動、6月28日7000人にまでふくれあがった集会は機動隊とついに衝突。7月19日には機動隊が逆占拠し、集会は排除となる。 彼等は"反戦"を歌にこめた高石友也・岡林信康・中川五郎・五つの赤い風船といった高石事務所のアーチストの歌を好んで歌っていた。高石らを同志だと思っていた。が、高石らはそういった集会には全く参加しなかった。 街頭を追い出された彼等は8月8日、大坂城址公園で「反戦のための万博」、そして11日日比谷野外音楽堂で「フォークゲリラ集会」をコンサート形式で開いている。 そうした不満が爆発して、ステージ上の高石友也に対していわゆる『討論会』を始める若者の熱弁がこのアルバムには記録されている。 五つの赤い風船は2曲しか収録されていないが、会場と静かにシングアウトする「遠い世界に」、こういう時代においても(こういう時代だからこそ)ラブソングを歌いあげた「恋は風に乗って」は見事としか言いようがない。 『第1回中津川フォークジャンボリー』では「恋は風に乗って」「遠い世界に-雨よいつまでも」「雨よ今日だけは降らないで」が、『第4回フォークキャンプ・コンサート』では「遠い世界に」「雨よいつまでも」が収録されているが、プロテストソングを会場を取り込んで一体感を出しながら、しかも楽しそうに盛り上げるパフォーマンスは神業とさえ思えるのだ。 フォークゲリラ等の不満をまともに浴びた岡林信康は69年9月に失踪、12月には高石友也が日本を離れることになる。 独自のスタンスでいた五つの赤い風船の4人だったが、危機は突然やってくる。 連日ステージ真っ最中の69年9月13日、風船サウンドの要・中川イサトが西岡たかしと音楽面で衝突、脱退することになったのだ。 ・・・・次回に続く・・・予定 追伸。話はちょっと変わりますが。 この69年9月は、日本の音楽において記憶にとどめておかなくてはならない時期なのだ。 こうしたフォークの波の陰で、GS崩壊後は行き先を見失っていった日本のロックの芽がようやく出てこようとしていた。 この夏アメリカではウッドストックを始め、異様なまでに盛上がっていたミュージック・フェスティバル。 そしてついに9月22日・日比谷野外音楽堂で『10円コンサート』開催、9月27日・虎の門日清ホールで『エイプリルフール・発売記念フリーコンサート』開催、9月28日・新宿厚生年金会館で『第1回日本ロックフェスティバル』開催と、いよいよ日本のロックが始動していくのだった・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[1969] カテゴリの最新記事
|