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2020/01/30(木)09:46

私の履歴書 蓑輪善藏-その7-度量衡法改正から環境計測の取り込みまで

エッセー(1392)

私の履歴書 蓑輪善藏-その7-度量衡法改正から環境計測の取り込みまで 私の履歴書 蓑輪善藏-その7-度量衡法改正から環境計測の取り込みまで 竹馬の友が省内に開院  中検の電話はこの頃、交換手が数人、本館2階、元の女子更衣室を改装した交換室で作業していました。工業技術院も近くにありましたが、ある日、工業技術院に歯科室を開設し、歯科医は栗原保之助氏との回覧が回ってきました。  幼稚園の頃から一緒に遊んでいた同姓同名の同年生が居ましたが、彼は銚子商業に進学していたので、まさかとは思っていました。親しかった交換手の荒井さんに佐原の人かどうか確かめてもらったところ、佐原ということで、早速電話して久闊(きゅうかつ)を叙しました。以来私の歯は彼が見ることになり、中検の多くの人も彼の患者になっていました。彼は今でも経済産業省別館の地下で開業しています。  1950年になるとGHQと政府は共産主義に対する危機感から共産主義者の公務員を除く所謂レッドパージの噂も出はじめ、共産党を脱党する声明文などが出たりして騒然となっていましたが、この年の暮に共産党員とそのシンパ4人程が退職させられました。仕事は良くしていた様ですし、一緒に議論したり、野球や卓球をした人もいて少々複雑でした。 計量管理推奨法  この頃になると1948年頃から論議され始めていた度量衡法改正の作業も軌道に乗りはじめ、初代の計量課長になった高田忠氏と佐藤義身さん、盛田清隆さん、中検の玉野所長以下岡田嘉信さん、高橋凱さんなどとの会合も頻繁になってきていました。1951年6月7日に計量法が公布され、ポケット版の珍袖計量法が配られたのもこの頃です。  度量衡法は罰則を伴う取締法ですが、通達行政であったものからの脱却と、計量管理に見られる推奨法的なものを加えた二面性を持たしたこと、規制対象計量器は取引、証明に限定はしていましたが、測定器の範囲を殆どの器種に広げ、今まで対象になっていなかったものについては順次規制対象に加えることにしたことが大きな改革だったような気がしました。このころは自分の担当だけにしか目が行きませんでした。 計量法と計量士認定  この中で所内の話題になったものの一つに検定執行者の資格と計量士の事がありました。計量法第225条で「検定の事務に従事する職員であって、政令で定めるもの及び154条第1項の職員は、計量教習所の課程を修了した者でなければならない」との条文があるためと、計量士の資格認定における度量衡技術講習と計量教習所の連続性の関係などによる経過措置としての、資格を与える為の条件に関するものでした。  結局、計量器の製造、修理などを含み、検定、検査その他の経験年数が8年で計量士、10年で計量教習所修了の認定となりました。このため勤務年数が10年に満たない計量行政職員は、度量衡講習の修了が必要となり、3年以上勤務している職員は1951年の短期度量衡講習を受講できることにし、この年東京と大阪とで開催された度量衡講習を多くの人が受講しました。中検からも兵役の為年数の足りなかったひとを含め多数の人が受講しています。  私は勤務年数が10年をこえていたため、経過規程により計量教習所修了の認定をうけた1人で、計量士登録も中検の先輩と一緒に行ない、登録番号は220でした。確か登緑料が1000円で協和会から借金し、月賦で返済した筈です。 圧力計検則の原案作成  計量法施行に向けての政省令審議は急ピッチで進められ所長室は毎晩遅くまで電気がついていました。私も時々ガスメータ、水道メータの検定規則の審議に出席させられましたが、そのとき米田さんも大阪から上京審議に参加していたこともありました。  度量衡器等の審議が終了し、私の担当する計圧器即ち圧力計、真空計と連成計について、検定規則の原案作成後の逐条審議が始まったのは1951年の12月に入ってからのことでした。これより先本省の佐藤義身さん、圧力担当の山崎さんたちと圧力計製作者を見学して歩いたことがありましたが、帰りは必ずといってよいくらい麻雀を付き合わされて帰りが遅くなっていました。  原案作成のために業界との意見交換や、説明などで虎ノ門の日本度量協会に何回か行きました。重台安蔵さん、本宮大介さん、佐藤次郎さんたちがその世話に奔走していたことが思い出されます。度量衡協会との親睦を図るため、協会と中検との対抗囲碁会が開かれ、習いたての私も9級で参加しました。 高田忠さんの時間感覚  原案を作るにあたって一番頭を悩ましたのは、この頃になってもブルドン管の材質が悪く、最高圧力での30分間の耐圧試験で不合格になるものが多く、耐圧時間を延ばせばのばすにつれて不合格が増えるのでした。耐圧時間を延ばせば処理能力が極端に悪くなりますが、品質が悪くなるのも耐えられません。  そんな中で、計圧器検定規則の逐条審議が行われました。谷川さんの口癖であった計圧器の規則は3条という話が耳についています。条文は少ないほうがと、はじめは少ない条文で案を出しましたが、検定心得以上の細かさを要求され随分抵抗しても、蟷螂の斧、検定官の裁量をなくすと言う理屈の下で空抵抗に終ってしまいました。  会議に対する高田さんたちの時間感覚が中検の人達とは異なり、審議は夕方から始まり夜中にわたる日が連日続くことになりました。昼は普通に勤め、訂正を考えて夕方からの会議に出席する日が1週間ほど続きました。家内の親から顔色が悪いが、と言われたのもこのときでした。  記憶が定かではありませんが、この頃でしたか本館4階に工業会の事務所が置かれていたことがありました。電話が引けず別館1階の受付係の電話を利用することになっていましたが、4階と1階で随分大変だったようでした。時には計圧器係の電話を使って貰った事もありました。 所内野球部等ができる  戦争が終ってからそれまで出来なかったいろいろな娯楽が、一つ一つ復活してきましたが、なんと言ってもお金のかからないもの即ち、囲碁、麻雀、パチンコ、映画などと、野球、卓球、テニスそしてバレーボールのスポーツでした。  身体に自信が有った私はそれこそ何から何まで首を突っ込んでいました。終戦直後から麻雀全盛で、宿直室はいつでも満員でした。食べ物が不自由な時でしたが、スポーツも始まり、野球は、高橋照二さんが熱心で最初の頃のメンバーは高橋、川村、白藤、坂本、福島、岩城、蓑輪などで打順も守備位置も適当で、やっと9人が集まるほどでしたが、間もなく森光雄さん、南田郁夫さん、天野重昭さん、松沢斎さん、吉田恒雄さん、坂倉知巳さん等が加わりチームの体裁も整いました。  卓球は沓澤寛さん、岩城七郎さんに私が加わる程度でしたが、卓球台があったことや、手軽に出来たことで若い人たちがどんどん加わるようになってきました。テニスは宮尾さんと一緒に発足させましたが、野球のグランドと同じで、コートの確保が困難でした。この頃になると各部とも人も多くなり、工業技術院の大会、親善試合と土曜、日曜日が益々忙しくなっていました。 浮ひょう係長へ  圧力計などの検定規則が一段落した翌年の4月浮ひょう係長へ配置換えになりました。実は1年前の4月に浮ひょう係長への内示があったのですが、係員の反対意見が多く1年延びていたものです。計圧器係の次の係長には榎本進一さんがなりました。  浮ひょう係への配置換えは検定のほか浮ひょうの標準即ち密度の標準設定も大きな目的であった為のようでした。この数年前から比較検査係で間宮修一郎さんが密度標準の仕事にかかわっていましたが、計量課に転出してしまった為のこともあったようです。  今考えますと、この時から私の後始末人生が始まったことになりました。浮ひょう係には大越正夫さん、保科直美さん、沢吹忠雄さん、山本伸一郎さんなどがいましたが、私と保科さんが標準の仕事を、検定は大越さんに指揮をして貰うことにし仕事を進めました。  計量法の方は同じ浮ひょうでも、目盛の単位により密度浮ひょう、濃度浮ひょうと比重浮ひょうに分けられて検定規則が出来ていました。この規則は中谷昇弘さんと保科さんとで作られたようです。  私が行ってから今度は、基準器検査規則の制定に向けての作業が始まりました。責任者は私でも保科さんと大越さんの知識でつくりました。この時保科さんの主張だったと思いますが、はじめて液体の表面張力に関する規定が盛り込まれました。 基準浮ひょうを校正  浮ひょうの標準はこれまでNo.127(24本組)の密度浮ひょうを基準としていました。この浮ひょうは大正12年の関東大震災で本所の標準浮ひょうが焼失したため、急遽福岡支所から移管させたもので、その校正は昭和16年に行われたままでした。この浮ひょうと大阪、福岡、名古屋支所の基準浮ひょうの校正が私に課せられた仕事でした。  浮ひょうの標準は基準密度浮ひょうの器差測定に尽きますが、これは基準密度浮ひょうの示度と、その液体の密度を測定することに尽きますが、示度の読み取りと、ピクノメーターによる密度測定の今で言う不確かさの検討や実験を行った後、器差測定をはじめました。  測定を始めて間もなく、薄い硫酸水溶液で表面張力が大きい液体の時に、浮ひょうの示度が安定せず、器差の決定が出来ず、測定を中止してしまいましたが、所長の玉野さんから保科さんへの文献紹介から液体表面を流して新しくすることにより、浮ひょうの示度を安定させることが出来、測定を再開することが出来ました。  この示度の不安定は結局表面張力の不安定によるものでした。また玉野さんから当時のN・B・Sから刊行されていた「浮秤の試験」という小冊子の翻訳を命ぜられ、四苦八苦しながら玉野さんに直され漸くガリ版刷りの冊子にすることが出来ました。私にこれから英語に馴染むようにとの親心だったのでしょうが、不肖の弟子になってしまいました。 治外法権的な部屋  私は1年間の計量教習を終えた後比較検査係を振り出しに仕事につき、調査係、計圧器係から浮ひょう係に移りましたが、計圧器係では中検の方針なのか、谷川さんの個性からか、仕事についての命令や、指示の類が全くと言っていいほど有りませんでしたし、続いた石井節三さん、鈴木豊明さんの係長の時そして私の時も、又浮ひょう係に移ってからも殆ど上司からの指示は有りませんでした。  私が計圧器係長になった頃から第1部第2課計圧器係、そして浮ひょう係となり、課長は中谷さんでしたが、課長からは部長会議の報告だけだったように思います。多分私などが係長になる前は、経験豊かなベテランが係長だったことにも原因していたのでしょう。  今になって思いますと、計圧器係は谷川さんの感化院と呼ばれていて谷川さんの独裁部屋、部屋中常に油だらけ、また浮ひょうの係は硫酸、硝酸を使い作業衣はボロボロ、いつ飛沫が飛んでくるか分らない部屋、上司が入ってくることも滅多になく、正に治外法権的な部屋でした。案外、圧力、密度は基本単位ではないし中検の表看板でもなかったことが原因かもしれません、そのためか私など最後まで勝手気ままに過ごさせて頂いたような気がします。 計量研究所の名称に  当時、先進国に追いつくことが一つの大きな目的でもあり、アメリカのNBS、イギリスのNPL、ドイツのPTBを目標に研究所への衣替えが計画されていました。  1953年になると機械試験所から朝永良夫さん以下山本健太郎さん、桜井好正さん、鎌田正久さん、遠藤大海さん他の方々が計量研(中央度量衡検定所は1952年中央計量検定所に、1961年計量研究所に名称が変わりましたのでここからは計量研と略称します)に移ってこられ研究所としての出発が始まりました。  この年9月に3部制になり初めて第1部を研究部として5つの研究室が出来、朝永良夫部長が誕生しました。私は第2部長の米田麟吉さんを室長とする第4研究室に配属されましたが、温度を主体とするこの研究室に、密度研究が加えられました。  このとき保科さんが長さの研究室に移られ、代わりに河崎禎さんが私の相棒になりました。研究室は本館4階の化学実験室を使うことになりました。化学実験室は特に専用者が居なかったようですが、基礎的な化学実験の用具と、ドイツ、メルク社の試薬がたくさんありました。化学実験室なので試薬を入れる戸棚と、部屋の真中に流し二つをつけた大きな化学実験台、それに排気口をつけた鉛張りのブロアー室のある窓の高い小さな部屋でした。  第4研究室が発足して直ぐの頃、温度研究室で使用する気圧計の水銀密度の測定と、純度の検討をすることになり、水銀の蒸留とピクノメーターによる測定を行いました。水銀の蒸留は、はじめ硬質ガラスで作った簡単な蒸留器で、水銀の入ったフラスコをサンドバスで熱して行いましたが、フラスコを洗浄するたびに砂の中に水銀が落ち、蒸留している間水銀蒸気が大分出ていたと思いますが、気にもしませんでした。  有機水銀による公害問題が発生したのは少し後のことだったように思います。水銀の密度測定はピクノメーターによる測定の確かさの検討にもなり、有意義だったようにも思いました。 標準密度浮ひょうの校正  標準密度浮ひょうは0.6g/立方センチメートル~2.0g/立方センチメートルの範囲を24本に分けられ、0.01g/立方センチメートル毎に器差の測定を行うため、測定点は166ヶ所にも及び、温度を一定にする為の時間が必要なため、1日2点位しか測定できず2年間ほどは毎日この測定に明け暮れていました。  研究室が発足して間もなく所内月例研究発表会が始まり、その最初の発表を表面張力の変化による浮ひょうの示度の変化と標準密度浮ひょうの校正について、発表を行ったように思っています。 計量技術ハンドブック  1954年に1903年創立の中央度量衡検定所50周年記念式典が愛知揆一通商産業大臣を迎えて行われましたが、所内公開にのみに参加したように思います。ただ、記念事業の一環として50年史の編纂と計量技術ハンドブックの執筆があり、密度関係の古い研究や液体の密度測定を勉強させられました。  1955年5月、東京晴海で開かれていた国際見本市を見学していた時のこと、拡声器からの呼び出しがあり案内所まで出向きましたが、呼び出しはしていないとの事、はて面妖と、見学を打ち切り家に帰ってみると、祖母死亡の通知がきましたが、こんな経験は後にも先にもこれ一回だけでした。祖父はすでに長女が生まれた翌年の1950年1月に亡くなっていました。 都府県への職員の移籍  研究所指向からの体制の整備や基準器検査の仕事量を見越してのことでしょうか、1952年から検定の委譲が始まったこともあって、計量研の本所、支所近くの都府県計量検定所への職員の移籍や、検定の技術研修が行われたのもその頃からだったように思いますが、担当は米田さんを部長とする第2部と岡田さんを部長とする第3部でしたので私などは直接のかかわりはありませんでした。  米田さんは第2部長で第1部の第4研究室長を兼務していて、第4研究室は米田さんの下、中谷昇弘さん、高田誠二さん、渡部勉さん、永瀬好治さんなどの温度担当と、密度担当の私と河崎さんとが室員でした。  思い出の一つにフランス語の勉強がありました。米田さんを先生に週1日ですが、午後の4時半頃から輪講形式で気体論1冊(文庫本位の薄いものですが)を読み上げました。このフランス語の勉強会には温度計係長の酒井五郎さん、企画係の多賀谷さんも参加していました。 教習所講師30年  計量教習所における密度の講義は、中谷さんが担当していましたが、私にお鉢が廻ってきたのは確か、1954年かその翌年だったように思います。  はじめは生徒の顔も見られませんでしたが、講義資料を作る作業は、良い勉強になり、1959年にコロナ社から発行した「密度及び濃度」はこの講義資料が元になっています。教習所の講師は以後30年程続けることになりました。  この時の教習所長は岡田嘉信さんで、矢萩修一さんの他男女各1名の事務員でした。計量教習所は新宿区河田町の地質調査所分室の4階にあり、板張りの床が波打っている様な所でした。近くに女子医大、フジテレビ、税務大学校がありました。教習所と同じ階に寝泊りしていた地方計量検定所からの教習生は、夜はよく新宿に遊びに行っていたようでした。 NBSと浮ひょうの器差比較  この頃でしたか、液体の比重測定方法、しばらくして固体の比重測定方法のJIS作成委員会が編成されましたが、何れも米田さんが委員長、私が幹事をすることになり、芝亀吉先生や筒井俊正先生等とJIS作成にかかわりました。  また計量士の国家試験には米田さんの下で、密度、濃度の試験問題、採点そしてはじめの頃の口頭試問にも担当として出席していました。口頭試問は河田町の計量教習所で専門別に別れ、必要な器種について行っていました。  密度、濃度は圧力と合同で専門科目として受験する人も少なく、質量などの必須科目に比べ楽でした。  この年標準密度浮ひょうの器差測定も終わりに近づき米田さんに報告したところ、この測定が外国に通用するかどうか確かめようと言うことで、アメリカのNBSと比較することになりました。新たに器差を測定した5本の浮ひょうをNBSに送り、その校正を依頼しました。  結果は非常によく一致し、私たちの測定が間違いないことがわかりました。結果がわかったその日に大変喜んでくださった米田さんに、銀座の居酒屋でご馳走になり、米田さんに市川の私の家まで送って頂いてしまいました。  この確認が取れたことから、計量研の本、支所で使用する標準密度浮ひょうを校正する作業に移りました。作業は河崎さん、浮ひょう係にいた内川恵三郎さんと1959年初めに終えましたが、液体表面を流すという測定方法の違いがあり、検定所、製作者と使用者にも周知徹底して定着するまでには更に2年ほどが必要だったように思います。 計量研は4部制に  1956年になり研究体制が更に充実されることになり、計量器と計量行政にかかわる部署が第4部にまとめられ、豊沢陽二さんが部長、第1部に長さ、硬さ、表面粗さなどの研究室、第2部には質量、温度、圧力などの研究室、第3部では力、流量、粘度などの研究室が配置され各部に課が置かれました。  第2部は米田さんが部長、第1課長が中谷さんで高温、常温、低温などの研究室、第2課長が小泉袈裟勝さんで金田良作さん、西端健さん、須藤清二さんの圧力研究室、高橋照二さん、小林好夫さんの質量研究室、それと私と河崎さんの密度研究室でした。  小泉さんと圧力研究室は水銀面を白色光による干渉で検出する標準気圧計の基礎設計を始めていて、再び水銀の精製を基準密度浮ひょうの器差測定と並行して行うことになりました。水銀の精製は結構大変でしたが、非金属除去の洗浄から三段式の蒸留器による蒸留を行ない、後水銀を密閉保存しました。 アルコール濃度の研究  4階研究室の隣西側の大部屋は鎌田正久さんの時間の研究室で、坂倉知巳さん、大月正男さんとフランスの国際度量衡局に移った後重力測定で有名になった佐久間晃彦さんがいて、時計のコンクールなどを手がけていました。昼休みは講習室での卓球か、坂倉さんに碁を教えてもらっていました。  角砂糖を精製し、砂糖溶液の比重と濃度の関係を測定し、標準蔗糖度浮ひょうの器差測定や浮ひょうの検査方法などの検討を行っていました。その中でエチルアルコールと水との混合液の濃度と比重との関係が不十分であることがわかり、この研究に主眼を置き始めました。  エチルアルコールは酒類のアルコールとしてよく知られていますが、日本酒のアルコールの濃度は、日本酒を蒸留しアルコールと水だけにした後、水を加えて蒸留前の体積にし、アルコールの濃度を目盛った酒精度浮ひょうを使い測定しています。  基本的に浮ひょうは密度、比重の測定器で、アルコールの濃度を目盛る為にはその濃度と密度、比重との関係を詳しく求めておかなければなりません。この関係は外国でも、日本でも1820年から1910年代にかけて測定されたいくつかの関係表を使っていて、桁数の不足や、相互間の不一致もありました。又、醸造酒類は体積による製造、販売でアルコールの濃度も体積%ですので、温度を定める必要もあります。  このような事から、実験を始めましたが、最初の問題は純アルコールの精製とその密度の決定でした。アルコール水溶液は大気中で蒸留することでは94体積%までしか精製できませんので、共沸混合物を作って蒸留したり、更に水素気流中での蒸留などを行ない100%近いアルコールを作ることが出来ました。  しかし、極めて吸湿性の強いアルコールは純アルコールとして取り扱うことは至難の業ですし、純アルコールの確定もまた難しいことです。河崎さんの発案もあり、純アルコール付近でカール・フィシャー試薬を使い含有する水分の量を測定して、逆にアルコールの濃度を求めることにしました。100%附近でアルコール濃度と密度測定を繰り返し、外挿して純アルコールの密度を確定しました。 板橋の旧第二陸軍造兵廠跡に移転  1956年になるとここ木挽町の庁舎は、手狭であること、振動が激しく研究の比重が多くなる中で適当ではないとの意見が強くなり、移転への対策が立てられ始めました。はじめ、目黒の旧海軍技術研究所の一部が候補に上がりましたが、翌年、板橋の旧第二陸軍造兵廠跡の土地建物を所管換えすることになり、1957年に移転することになりました。私の密度研究室は板橋に移っても又4階にある唯一の部屋が割り当てられました。移転の準備、移転してからの整備など大変でした。この部屋に床排水をつけ化学実験室にしましたが、移転日の当日床にセメントが塗られるような有様でした。  この頃、研究職と言う職種が新設され、計量研でも経歴と仕事から研究職への格付けが行われました。公務員の給与では生活も楽ではなく、検定の出張旅費と賞与とが僅かに潤いを与えていた程度でしたのに、浮ひょう係に移り、研究的業務になってからは出張も無くなってしまいました。  研究職になると、行政職より給与は少しよくなる程度でした。この頃、本人の希望もあって、高橋照二さんが2部2課から4部に移り内川恵三郎さんが配属されたように思います。 板橋ではスポーツが盛んに  板橋に移ると,運動場も近くにありスポーツに励む人も多くなりました。1953年に機械試験所から計量研に移られた朝永さんをはじめとした方々の中には、野球では、工業技術院の大会で何度も優勝していた機械試験所の監督だった遠藤さん、投手の須田さんが、テニスではオール通産でNo.1といわれた朝永さんそして横山豊さんなど、或いは新しく入所する人の中にもスポーツをする人も多くいて、所内で各部の対抗戦も行われる様になり私などいつもそのメンバーに入っていました。  オール通産には本省の上手な方々も居られましたが、工業技術院電気試験所の石川泰利さん、村上克巳さん、岩崎秀寿さん、加藤機さんなども居られ、その練習や試合には朝永さんと一緒によく参加させていただきました。 休日は野球とテニス  これより前1951年には長男正孝も生まれ、長女の恵子も小学校に入りました。市川市の人口も増えていた頃で1951年には新しく近くに菅野小学校が開校し、恵子も二学期からこの小学校に移りました。  市川市はスポーツが盛んであったのでしょうか、市内小学校PTAの野球と卓球の大会が春と秋の2回開催されていました。菅野小学校は新しい小学校で生徒数も少なく、家内がPTAの役員になったこともあって、早速と野球、卓球のメンバーに組み入れられてしまいました。野球も卓球も堪能な人が少なく、しかも野球などは9人ぎりぎりの時が多く練習や試合もままならない時がありました。  長男が卒業するまでの約10年の間付き合いましたが、私が投手で一度だけ優勝し、最優秀投手に選ばれたことがありました。計量研とPTAでの野球やテニスで、日曜日に家に居る時が非常に少なかった様に思います。 メートル法専用の法律が成立  計量研が板橋への移転を行っていた1958年、密度標準設定の研究も一段落し、エチルアルコールの研究に入る前でしたので、東京大学の理工学部化学科に1年間、工業技術院からの聴講生として通わせていただきました。この年メートル法専用に係る法律が成立、翌年4月1日施行になりました。 この時計量器に付いている非メートル系目盛を抹消することになったようで、台はかり等の目盛をグラインダーで削ったとか、抹消専用機が出来たとか話題になっていました。そんなにまでして、との意見も聞かれましたが、それまでのメートル法化への取り組みと、思い入れの結果だったのでしょう。  1959年の伊勢湾台風のとき、たまたま計量研分会の委員長をしていたようで、全商工で救援物資等を集めたことがあり、計量研でも寄付を募りいろいろのものが集まりました。その一部を選び名古屋支所に送り、その後見舞いに名古屋支所を訪ねたことが思い出されます。 国際アルコール表  計量研が板橋に移って間もなく小泉さんが第3部に移り東京大学から大山勲さんが第2部第2課長として就任され、また質量研究室に地球物理学を専攻した三宅史さんが配属されてきました。  研究的雰囲気は高まってきて、課内での輪講や、三宅さんによる結晶学の講義が始まったのもこの頃でした。私たちの密度研究室では純エチルアルコールの密度を確定するための測定を繰り返していました。  また、濃度を確定したアルコールと水とを混合し、混合液の密度を測定する作業に明け暮れていました。温度範囲は、はじめ15℃~30℃とし質量百分率と密度との関係を多項式で表すこととしていましたが、最終的にはマイナス20℃まで広げました。  1963年から密度研究室に配属された稲松照子さんを含めて0%から100%までを多項式にあてはめました。この計算には矢野宏さんの研究室に居た後藤充夫さんに協力してもらいました。この結果は国際的に認知された国際アルコール表を作成した時の基礎資料として採用されています。  研究が終わったのは1970年でした。ビール、日本酒をはじめ色々の酒類を買って、凍らせたり、蒸留したりして実験をしていましたが、特別な結果は出ませんでした。  この頃だったでしょうか、とんでもない失敗をしています。蒸留水は常に作っていましたが、ある日、冷却水のバルブを閉め忘れて、そのまま帰ってしまったところ、床に水があふれ、3階の部屋を通り抜けて所長室を水浸しにしてしまいました。  このときの所長は玉野さん、所長は勿論、総務、企画を謝って回りました。そもそも4階の実験室は床排水があり、普通ならば排水溝に流れる筈でしたが排水溝が高かったため、暖房のパイプを伝わって所長室に流れ込んだものでした。  所長室のPタイルは張り替えることになったはずです。第2代の渡辺襄所長ではありませんので、雷は落ちませんでしたが、頭を下げて回りました。 2度目の家を建てる  京成の分譲地で土地の面積142平方メートルの所に43平方メートルの家を建てていましたが、子供も次第に大きくなってきたので30平方メートル程の部屋を建て増しをしました。ところが間もなく南側の家が総二階にするとして工事を始めました。我が家を建て増すとき総二階にはしないとのことでしたが、これでは小さな庭にも日当たりが悪くなることは目に見えていますし、子供もかわいそうです。直ぐに引っ越すことに決め、土地探しから始めて、市川駅からは少し遠くなりますが、今の所に少し大きめな土地を購入し家を建てました。  その頃はまだ直ぐ南側は田圃で、夏の夜などは蛙の声が喧しいほどでした。市川駅まではバスが走っていましたが、道路が悪く座席から飛び出すほどでした。今はすっかり家が建ち、学校が幾つか出来、バスもラッシュ時には3、4分おきに走るようになり、ここのバス路線はドル箱路線と言われる様になっています。 シリンダー密度の国際比較に参加  この頃BIPMが主催したシリンダー密度の国際比較に参加、6ヶ月の間、約995gのニクラル製(ニッケル20%、クロム20%のステンレス)シリンダーの密度を小林好夫さん、河崎禎さんと、その測定に従事しました。  この国際比較は、キログラム原器から導いた標準研究所の標準分銅による、質量測定の正しさと、空気密度による浮力補正のための、密度測定の正しさを検証するのが目的で、水の密度はChappuisの表を使うことになっていました。世界の多くの標準研究所が参加しましたが、私達の測定は平均値付近になっていました。この時の第2部長は佐藤朗さんで、フランス語による報告は佐藤さんに書いて頂きました。  この頃は、既に数年前から湿度の標準設定に関する研究が始まっていて、1965年、私が第4部2課に配置換えになったこともあってか、研究室に田中良行さんが加わりました。伊藤隆さんも仲間に加わり密度標準の研究に従事していました。一時期4部2課に所属換えになりましたが仕事の方は何も変わらなかった様でした。 1966年計量法の大改正  1966年計量法の大改正がありましたが、この時に規制対象計量器を大幅に削減することになっていて、検定に従事していた行政職員の処遇が問題になっていました。  電気計器を包含したこの時の改正で検定の一部としてではあったものの、型式承認制度が発足、第4部に所属していた約20人の研究職が型式承認試験を担当し、約20人の行政職が基準器検査を担当することとなりました。  この時の改正は計量研の内容を大きく変えることになったようです。この時の第4部には、部長の和田功さん以下、課長に榎本進一さん、酒井五郎さん、小泉袈裟勝さんそして主任研究官に高橋照二さん、穂坂光司さん、角田和一郎さん、古関武雄さん、天野重昭さん等々が居られました。 第4部第2課長に就任  1968年に酒井五郎さんの後を継いで第4部第2課長に就任し、温度計研究室、温度計係と浮ひょう係を受け持ち、結構間違いのあった成績書のチェックなどの仕事をしていましたが、4部が3課から2課になって、わずか9ヶ月で第3部流体計測課長に配置換えになり元の仕事に戻りました。  この前後でしたか福岡支所長として岡本暘之助さんが赴任されました。第3部長は川田裕郎さん、流体計測課には密度、湿度研究室、倉瀬公男さんの粘度研究室、小宮勤一さんの流量研究室がありましたが、部長は流量、粘度の専門家、室長は優秀、私などがとやかく指示する必要もなく、専ら密度、湿度研究室でエチルアルコールの濃度と比重についての総合的なまとめをしていました。  LPG用密度浮ひょうの校正方法については、1気圧の下での検査結果が、10気圧までの気圧変化に対する浮ひょうの体積変化による影響を実験、検証したり、恒湿発生装置の確認測定などに従事していました。 水の密度の測定  研究室の研究テーマとして水の密度が話題になりはじめたのもこの頃のことでした。水はメートル法の最初、最大密度の10cm立方の質量を1kgとするなど、また物性定数としても重要な位置を占めていますが、その測定値は1910年頃のもので、計量研では或る温度付近で不連続性も指摘されるようになっていた事から、密度研究室のこれからの重要テーマは水の密度の測定とし、準備に入り始めました。  密度、湿度研究室に仙田修さん、渡辺英雄さんなどが配属になったのもこの頃でした。同位元素の問題などの検討から研究が始められていきました。 計量法の環境測定のキッカケ  1971年になると公害問題が世に喧伝されるようになり、規制についての議論が始まりました。公害問題が起きて、測定に関する講習会も多くなり、その講師として川田さん、河崎さんなどと分担して、(社)計量管理協会や(社)日本計量士会の講習会に行っていました。  この少し後のことだと思いますが、政府委員の補助として衆議院の商工委員会に出席したとき、科学技術庁の研究所で行った公害測定値が改ざんされたと言う問題が議論され、それが計量法に環境測定器などが取り入れられるキッカケだったのかもしれません。  公害、環境については、3部の流体計測課が化学分野にもっとも近かったためか、なんとなく担当するようになっていました。計量行政審議会に2つの公害関係専門部会を発足させ標準物質と測定器の検討に入りましたが、常に事務局側の委員として検定検査規則の原案作成などにかかわりました。  計量法は、今まで物理、工学面を主に対応してきたものを、化学にまで広げるには、メートル原器やキログラム原器などに比べ、使えば失くなる標準物質との整合などがありました。この仕事は1974年の計量法改正まで続き、検定方法などの委員会にはいつも出席していました。 研究所筑波に移転  この頃になると、工業技術院の研究所を筑波に移転する案の具体化がはじまり、計量研内でも賛否両論、喧々諤々の議論が沸騰しました。特に型式承認、検定、基準器検査を担当する第4部は検定、検査申請人の便宜と、計量標準は、何時でも、何処でも、誰でも、必要に応じて手軽に得られる事が必要として分室として東京に残すべきもの、と運動、本省にも働きかけをする事態になっていました。  組合運動にも連動させたこの運動も、なかなか実を結ぶ結果の先行きが見えず、計量研自身の意思もなかなかまとまる様子が見えませんでしたが、1、2、3部の研究部の人達には、この問題についての関心は極めて薄かったよう思えました。この運動は、移転後に於ける計量研の弱体化、採算性などを重視する工業技術院や計量研幹部の意見と相容れず、多くの困難性がありました。 (つづく) part-7-my-resume-zenzo-minowa-from-the-rrevision-of-the-metrology-law-to-the-incorporation-of -environmental-measurements-measurement-data-bank-

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