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2020年01月30日
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カテゴリ:エッセー
私の履歴書 簔輪善藏-その8-計量研究所第4部長時代のこと


    写真は蓑輪善藏氏

私の履歴書 簔輪善藏-その8-計量研究所第4部長時代のこと

第4部長就任への打診が

 計量研の第4部長は豊沢陽二さん、和田功さんから小泉袈裟勝さんになり、1971年から増井敏郎さんになっていましたが、1973年になって筑波移転がいよいよ具体化の段階に入ってきたころ、所長からではなく川田第3部長から相談の形で第4部長に、という打診がありました。

 この話が出る大分前から、第4部長室と同じ3階にあった密度研究室に増井さんが囲碁の誘いに来ては部長室で碁をうち、その時よく4部内の話をしてくれていましたのは、その前提だったのでしょう。

 薄々は感じていましたが、増井さんが静岡大学に出向することになって、正式に話がでたときは、何故私なのか、私に勤まるのかどうか、また4部内は筑波移転問題で紛糾中、他の部長は東大出の研究者、また部長になることは私の先行きが限定されるようでもあり、居心地の良い計量研を早く辞めなければ等々ということを考えながら大分迷いました。

当時の計量研究所の体制

 この頃には2人の子供も親の責任がなくなる年になりつつあり、あとは計量研内のことだけで、移転問題の後始末も大変と思いましたが、色々の事情をも考え引き受けることにしました。特に何かの処理を命じられたこともなく、4月から4部長の職に就きました。

 2流、3流の研究者で、研究や実験が好きではなく、手先の不器用な私としてはそろそろ身の処し方も頭に有ったのかも知れません。

 あとで聞かされた話ですが、私が4部長になることを承諾して、何故か所長が喜んでいたとの事でした。

 この頃の計量研は山本健太郎所長、桜井好正第1部長、高田誠二第2部長、川田裕郎第3部長、入江義矩総務部長、奈良治郎企画官でした。

 第4部は大越正夫さんと穂坂光司さんとが課長で研究室長には角田和一郎さん、高橋照二さん、古関武雄さん、木村雄一さん、黒部明さん、村田守さん、検査係長には中保治彦さん、宮川安正さん、沢吹忠雄さん、菊池正明さん等でした。

同好の士で計量囲碁会

 4部長になる少し前からだったでしょうか、日本計量新報社の久保田誠社長と碁を楽しむようになっていて、土曜日の午後市ヶ谷の日本計量新報社によく立ち寄っていました。

 このときの相談で計量囲碁会を発足させ、日本計量協会の南部鎮雄会長から優勝カップの寄贈をお願いし、計量研、東京都計量検定所、神奈川県計量検定所そして各団体の事務局に声をかけて開催したのを思い出します。会場と世話人は計量会館、計量研、東京都などで持ち回り、多いときには30~40人もの囲碁愛好者が集まりました。一時中断しましたが、最近また復活して、1年に1、2回計量会館で開催されていますが、15~20人程が参加しています。

計量研4部の主な業務

 第4部の業務は総務部業務課と行う計量法施行に係るものと、3支所との関係が主なものでした。計量法施行関係では本省の計量課と月1回の中央連絡会議、年2回の全国計量行政機関会議、年1回の全国計量技術連絡協議会、本、支所技術課長会議などの会議と、計量教習所並びに都道府県との関係があります。

 この時、大阪支所長は原田祐之さんでしたが、この年7月高井登さんになり、福岡支所長は吉永明さん、名古屋支所長は小島鹿蔵さんで、業務課長は高橋政雄さんでした。

 計量器の検査、検定技術を統一し、効率化する目的のため、全国計量技術連絡協議会は計量研と都道府県計量検定所とによって作られていましたが、その下に各地区の計量技術連絡協議会があり、その管轄と分担は本所が、関東甲信越地区と東北北海道地区、大阪支所が近畿地区(除三重県)と中国四国地区(除山口県)、福岡支所が九州地区(含山口県)、名古屋支所が中部地区(含三重県)となっていました。

 各地区の計量技術連絡協議会は質疑応答の他に、担当計量器を決め、その性能に係る調査研究を実施していました。

中検に地方庁の人事権が

 1933年中検の所長が橘川司亮氏から渡辺襄氏になったとき技術と行政が分離し本省に監督課が生まれました。

 それまでの中検は地方庁の人事まで持った計量行政すべての監督、指導官庁でその実権は1940年前後まで続いていたようですが、その後は研究、技術面と新しい計量器への対応が主になり、計量法が誕生して20年も経過すれば、計量研そのものの性格も変わり、計量行政への直接的技術対応も第4部に任される状況になり、小泉さん時代から独立守備隊などと称していました。

筑波移転の後始末

 4部内は筑波移転での議論はつづいていましたが、周囲の情勢も変わらず、私が東京に分室を作ることに消極的であり、計量標準に対する主義の違いと、実現の困難さを含めた説得もあったのでしょう、しばらくすると、なんとなく沈静化してきたようにも思いました。4部には約20人の研究職と略同数の行政職とが配置されていて、研究職は計量器についての研究と形式承認関係を、行政職は基準器検査と検定を受け持っていました。

 そして筑波移転に関しては、移転困難者や筑波に行きたくない人達への対応が重要な課題でした。

 大分以前には、計量器使用事業場に計量研OBも計量士として多くの人が勤務していました。例えば、明戸一郎さん、榎本貞一郎さん、黒田貫忠さん、加藤容三さん、内田牧さん、庄司行義さん等々ですが、この頃は伊勢丹の吉田彰二さんくらいでした。そこで、計量士の資格を持つ移転困難者に対応するために、早速と東京都計量検定所へ出向きました。

 この時の検定所長は確か堀井晃さんで計量研から東京都に移っていた堀越義国さん、川村竹一さん、東ヶ崎圭二さん、矢島克巳さん、白井岩一さんなどが居られ協力をお願いしました。この後、矢島さんと白井さんには大変お世話になりました。私が部長のとき木下鉄男さん、森光男さんが転出されましたが、以後多くの人が計量士として働くようになりました。

全国計量行政機関会議

 通商産業省主催の全国計量行政機関会議は計量研究所長、第4部長と3支所長が出席し、会議に於ける発言は主に4部長があたっていました。

 この会議は私が最初に出席した時から随分と活発なやり取りがあり、計量課が答弁に困る場面もしばしばありました。この頃、都道府県の計量検定所長には度量衡技術講習と計量教習所修了者が多く、長年にわたる計量行政の経験を基にした質問、提案で、討論が激しくなることもありました。

 皆、計量行政に対して信念を持って当たっていた人たちで、熱心なものでした。計量研は計量行政の技術面を担当していましたが、計量技術連絡協議会を開催して技術面への対応を密にしていたこともあって、苦しい答弁の場面も少なく、返って励まされることの方が多かったように思いました。

地方庁の方々との交流

 多くの計量検定所長の方々と初対面ではない挨拶をする事ができたのは、永年計量教習所の講師を続けていたおかげで、それからの仕事に大きな力になりました。本所管轄の関東甲信越地区、東北・北海道地区をはじめ全国に知った人が居ることは大変心強いことでした。

 特に関東甲信越地区、東北・北海道地区の方々にはお会いする機会も多くお世話になりました。山形幸吉さん、田村律さん、沢野耕一郎さん、相馬義一さん、平間繁男さん、小野伝さん、江崎定輔さん、畑山桂さん、斎藤勝夫さんの方々には当時はもとより以後もお付き合いをさせていただいたりしていました。

 また斎藤さんには私が千葉県人であることもあって、その後を含めて色々の面でお知恵をかりたことが沢山ありました。全国計量行政機関会議が1、2度あった後は、中検入所当時にお世話になった広島の高橋さんが、県に移られた後広島県計量検定所長になられ、また、多くの知った顔との再会が一つの楽しみにもなっていました。大過なく過ごせたのもこの方々のおかげと思っています。

4部長時代に仕事予算増額の成功

 4部長になって来年度の予算要求が始まった時、4部、3支所の研究、検査関係の予算の主たるものは、設備近代化予算と検定検査庁費でしたが、何年にもわたって増えていなかった検定検査庁費の大幅増を計画、総務部長の入江義矩さんと、会計課長の立川喜久夫さんのおかげもあって、約2500万円だったものが5000万円近くになったことは望外のことでした。

JICAの集団研修受け入れ(1)

 国際間の交流が盛んになり、工業技術院に国際協力室ができ、発展途上国への技術移転、あるいは共同研究の制度が発足し、計量研に国際技術協力係が設けられたのもこの年でした。

JICAの集団研修受け入れ(2)

 係長は岩崎晋さんでメートル条約、国際法定計量機関(OIML)に加え、1973年度からはじまる国際協力事業団(JICA)による集団研修コースとしての「計量標準コース」と工業技術院の国際研究協力事業(ITIT)に対応するものでした。JICAの研修はこの時は3ヶ月で約10ヶ国からの受け入れでした。

マレーシアへの技術移転の協力

 またITITは岩崎晋さんと山本弘さんの努力で、マレーシア国と計量標準供給についての共同研究を始めることになり、プロジェクト研究が開始され、1974年3月共同研究調印のため岩崎さんと25日程マレーシア国に出張しましたが、このとき岩崎さんにすっかりお世話になりました。

 私は初めての外国で、クアラルンプールに到着する時、飛行機が雷雲に突っ込み、物凄いゆれで歓迎されたのを思い出します。クアラルンプールでは毎日会議で、こちらからの説明と質問に答えることに終始していました。できかかっていた標準研究所を見学に行ったり、調印書類の催促をしたりしていましたが、なかなか思うようになりませんでした。

 休みの日を有効に使い、クアラルンプール附近を見学して廻りながら買い物をしたり、ペナン島まで車で送って貰い、静養の真似事などもしました。長い日数をかけても、結局は書類が回らず調印までこぎつけられませんでした。風土の違いを見せ付けられた思いでした。

 この時の帰りは、バンコクと香港に寄りましたが、バンコクでは検定所を見学し、日本の計量法を誉められ、はかりの検定作業などを見学し、香港では店員に「あなたは日本語が上手だ」などと言われて、悦に入っていたのを思い出します。

姫野瑛一課長の計量法大改正構想(1)

 4部長室には小泉さん命名のアルコールテーブルと称する丸テーブルがあり、小泉さん時代から退庁時間後毎日のようにお酒を飲みながら議論していました。私になって大分回数は減ってしまいましたが、それでも時々は同じようなことが行われていました。

 私が4部長になると同時に計量課長も姫野瑛一さんになって青森で行われた東北・北海道計量大会に一緒に出席したことを思い出します。この姫野さんが計量法大改正を計画、計量行政審議会に諮問しました。

 今はもう記憶が定かではありませんが、多分計量法の中に環境計量が組み入れられたことなどから、全面的に見直すことを考えたものと思います。

 この時の総括班長が鈴木孝男さんだったと思いますが、検定検査方法を合理化するため、技術的見地から、型式承認と抜取検査とを検討したことが思い出されます。当時計量課に在籍していた渡辺修一さんと業務課長の高橋政雄さんの3人で、検定制度の検討をする相談をし、型式承認を検定の前提として位置付け、試験をするもの、一部試験するもの、図面審査のみのもの、試用期間とするもの等々の議論をしました。

姫野瑛一課長の計量法大改正構想(2)

 諮問の中で一つの大きな検討課題としていた抜取検査問題は私が委員長になって検討が行われる予定でしたが、委員会を開くことなく、抜取検査は計量法に馴染まないとして没になりました。

 また、計量士の中に、環境に係る者を追加することになった時には、環境関係を含めて4種、あるいは環境以外を4種にするなど幾つかの案があり検討されましたが、業務の関係で結局は環境と一般の2種になりました。

 環境関係を計量法へ取り入れた規則改正は1974年に行われています。計量行政審議会に設置されていた検定検査部会をはじめとする幾つかの部会が開催されるたびに、出席していたものですが、記憶は薄くなっています。

内村俊一計量課長

 計量課長が姫野さんから内村俊一さんに代わると、計量法改正も方針が変わり作業も終息の方向に向かい、法律改正は行わず政省令の改正のみに限られたかと思います。それまでは計量法大改正に随分と振り回され、時間も費やしました。法律改正が如何に大変なことかは判っていたつもりですが、漸く実感として理解したのはこの頃からでしょうか。

 当時は基本単位の定義は法律事項で例えば、メートルの定義が変更になり、訂正することになると、定義だけの議論ではなく、計量法全般が対象になり、やれタクシーのメーターがどうの、量目がどうのなど、他のことまで検討、整備しなければならなくなるのです。内村さんはお酒が好きで、夜遅くまで付き合ったことが思い出されます。

高橋照二さんなど4部の面々

 この頃の4部には1966年の計量法改正に携わっていた業務課の高橋政雄さんや、省令文章を作ったりした質量計の高橋照二さん、体積計の穂坂光司さん、タキシーメーターの角田和一郎さん等専門職の方々が居られたので、法令関係とそれに付随する技術についてはほとんど私の決定は必要なかったように思います。

 土浦市でのガスメーター爆発事故、タキシーメーターの初乗り以後における不正への対応等がありましたが、主には検定技術の簡素化、効率化、3支所との調整、ブロック会議などへの出席、検定所からの要望、問い合わせへの対応などが主要な仕事だったのかも知れません。

箭内庄五郎さんから教わる

 東北・北海道計量大会への出席は業務課長の高橋さんと交代で行くことにしていましたので、宮城県で開催された1975年の大会には私が参加することになっていました。

 このとき宮城県は、東京からの招待者の取り持ち、案内をはかり工業会の会長であった北東衡機の箭内庄五郎さんに依頼したため、箭内さんから、計量課からの出席者の確認と、前日に福島に一泊し、仙台に向かうことにしたいとの意向を私に連絡してきました。

 計量課の出席者を確認し二人で会議の前日、福島の飯坂で一泊することになりましたが、夕食後計量課の人は寝てしまい、私は箭内さんからいろいろな事を聞くことが出来ました。

 聞いた話では箭内さんは大使館に勤務していたこともあったとか、ゆっくり話したのはこの時だけですが、「公務員が最終的に判断する時は、国のためになるかならないかである」との言葉は今でも耳に残っています。この時の宮城県の計量検定所長は平間繁男さんでしたが、東北・北海道の検定所長連は酒豪がそろっていて、お酒も随分とはかどっていたようでした。

4部長の諸業務

 部長の仕事にも慣れてきてはいましたが、計量行政審議会専門部会への出席、計量課との打ち合わせ、所内での事務処理、支所との連絡、計量教習所への講師派遣、教習所への入所者の選定、都道府県計量検定所との連絡、部内の相談、メーカー、ユーザーとの対応など忙しい毎日を過ごしていました。計量協会等のブロック会議では東北・北海道、関東甲信越と中部7県にはよく出席していたように思います。

筑波移転前後の計量研

 中検時代から鋭意集められていた古い、ものさし、ます、はかり類は4階講堂に陳列されていましたが、第2部長であった高田誠二さんの担当であったのでしょうか、筑波移転で陳列するための部屋と管理する研究者の確保との見通しが立たなかったことから文部省の科学博物館に移管することが部長会議に報告されたのがこの頃であったかと思います。

 研究テーマが多岐にわたり、計量標準には直接的にかかわりのない様な研究も多くなる中で、研究職に対する研究発表や研究論文の数を問題視する風潮が幅を利かせていて、型式承認試験に係る4部研究職の論文不足は、昇格、昇給に影響し、この対応には精力を使い随分悩まされました。

妻と二人で北海道を巡る

 忙しかった中でも、地方庁の方々とのお付き合いは、先輩部長のお陰もあってお酒の相手が多く、気の置けない楽しさもありました。結婚25年が丁度この頃で、新婚旅行もしていなかった私達は、夫婦2人での旅行はしたことがありませんでしたが、初めて2人で北海道を旅行しました。

 この時は北海道計量検定所の山形幸吉所長、野呂幸治さん、関口栄吉さん等の方々にお世話になり楽しい旅行をさせて頂きました。北海道には1949年か1950年の11月に沓澤寛さんと10日間程ガスメーター検定のため、函館のガス会社に出張したことがあったのみでした。このときの出張は玉野さんに無理にお願いしましたので思い出があり、湯の川に泊まり毎日市電に乗り雪の中をガス会社に通っていたことが思い出されます。

 1976年の3月頃になって近所の人の紹介があって国府台の自動車教習所に通うことにしましたが、忙しい中、時間を作るのが大変で、6ヶ月ぎりぎりになり、免許は計量教習所に移ってからになってしまいました。

学位論文は纏めず仕舞

 このころ計量研では学位を取ることが盛んになり、特に計量標準に関しては研究者が限られていることや、計量標準の研究が認知され始めていたこともあって、学位取得者も多くなっていました。

 松代正三さんが、日本大学の理工学部長になったことでもあり、私も極めて忙しい毎日を過ごしていましたが、それまでの密度標準に関する研究論文を持って、2度ほど松代さんを訪ね論文を見ていただき、まとめることになりました。しかしその後間もなく、何の理由も無くその気が萎えて、論文のまとめを放棄してしまいました。後に松代さんから何で書かなかったのかと、何回も言われました。

環境計測との関わり

 環境関係も1974年の計量法改正から活発になり、(財)機械電子検査検定協会(日本品質保証機構)、(財)化学品検査協会(化学物質評価研究機構)とも関係ができ、機械電子検査検定協会では流量による混合方式を利用した標準ガス作成装置の製作、化学品検査協会では重量による混合方式の研究が行われ始めていました。

 また通商産業省と環境庁との共管で(社)日本環境測定分析協会が誕生し、会長に神原周氏、常務理事に通商産業省出身の後藤孝氏と工業品検査所出の岩村栄之介氏、総務部次長が吉村忠男さんとなっていたように思います。

 第4部長になる前から環境関係の仕事に従事していましたので、計量課の黒須さん、各種の委員会に出席していた遠藤文雄さん、大志摩継影さんや高橋昭さんなどの方々が記憶に残っています。

 1975年から1976年に移るころになると、部長になって3年にもなり考えるべき時期になりましたが、川田さんとの相談から計量教習所長への道を考えて頂きました。

(つづく)

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最終更新日  2020年01月30日 09時49分01秒
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