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芥川龍之介、広津和郎、宇野浩二はほぼ同年の作家である。
芥川が1892(明治25)年、広津と宇野が1891(明治24)年生まれ。 広津と宇野の交友は知られるところだが、芥川と広津も「親友」とはいわないまでも因縁浅からぬものがある。 この3人の作家は、関東大震災以降の時代の「不安」というものにそれぞれに向き合って生きたが、もっとも確かな生命力をもって「不安」にたちむかったのは広津和郎だったように思える。 それを実感できるのが「あの時代」という回顧録なのである。 広津和郎「あの時代」というのは芥川龍之介の自殺した1927(昭和2)年を、昭和24年時点から思い出して綴られた文壇交遊録である。 広津の回想の中心になっているのは、自殺前の芥川のfeebleな(弱弱しい)様子、精神をわずらって(今で言う躁状態だろう)入院する羽目になった宇野浩二である。 とくに宇野浩二の「発狂」に関しては、芥川の遺作「或阿呆の一生」にも出てくるくらい、文壇仲間のうちではショッキングな出来事だったらしく、広津も心痛した様子が書いてある。 たとえば宇野の行動は一時期、次のように常軌を逸したものであった。 「宇野のお母さんと僕(宇野の友人の画家Y・N)とで、宇野を箱根から連れ帰ってきたことがあるんだよ。夕方なんだがね、小田原の駅の前で汽車を待っている間にふと気がつくと宇野の姿がみえなくなってしまったんだよ。・・・そこで僕はすぐその料理屋に行ってみたんだがね。そうすると宇野はそこの家の二階の座敷に一人でいるんだよ。『どうしてこんな処に来たのだ』というと『腹がへったからだ』というんだよ。そして『ああ腹がへった、腹がへった』といいながらいきなり床の間に挿してあった薔薇の花をぺろぺろと食べだしたんだよ」 Y・Nは話上手でこんな話をするのにもにこにこ笑顔をしながら話すのである (「ある時代」『現代日本文学全集60』・筑摩書房、152頁) これと同じ光景が芥川「或阿呆の一生」にも出てくる。 彼の友だちの一人は発狂した。彼はこの友だちにいつも或親しみを感じてゐた。それは彼にはこの友だちの孤独の、――軽快な仮面の下にある孤独の人一倍身にしみてわかる為だつた。彼はこの友だちの発狂した後、二三度この友だちを訪問した。 「君や僕は悪鬼につかれてゐるんだね。世紀末の悪鬼と云ふやつにねえ。」 この友だちは声をひそめながら、こんなことを彼に話したりしたが、それから二三日後には或温泉宿へ出かける途中、薔薇(ばら)の花さへ食つてゐたと云ふことだつた。彼はこの友だちの入院した後、いつか彼のこの友だちに贈つたテラコツタの半身像を思ひ出した。それはこの友だちの愛した「検察官」の作者の半身像だつた。彼はゴオゴリイも狂死したのを思ひ、何か彼等を支配してゐる力を感じずにはゐられなかつた。 芥川の遺作として有名な「或阿呆の一生」は、作品としての成立すらあやぶまれる難解なシロモノだが、広津「あの時代」とあわせて読むと上記に引用した「発狂した友人」のことが宇野であることがすぐにわかる。 同じ薔薇のエピソードを広津と芥川は同じ場所で画家Y・N氏から聞いているのだが、その消化の仕方は見事に違う。 それが作家の「作風」というものであり、生き様なのだなあとしみじみ感じる。 「ある時代」を読んでいると、広津の宇野に対するこまやかな友情(なにせ宇野の入院につきそったり家族の心配までしてやっている!)とともに、芥川に対する不思議な愛着がにじみ出ている。 フィーブル(feeble=弱弱しい)という形容詞を芥川に多用しているのもその愛着のあらわれだし、「愛らしい」「少年」という表現が目につくのもそうだろう。 ほぼ同年とはいえ、兄が弟を見るような眼差しをそこに感じる。 芥川ファンにとっては興味深いエッセイであるにちがいない。 私自身は、芥川や宇野のような、同年ながらやんちゃな弟たちをもった文壇の兄としての広津の存在感に憧れと興味を覚えるのである。 芥川龍之介「或阿呆の一生」、遺書のひとつである「或旧友へ送る手記」は青空文庫で閲覧可能です。 広津和郎「ある時代」が収録されている『同時代の作家達』(岩波文庫)はフリマでの取り扱いになります。 いい本でも絶版が多いのは時代とはいえ残念なことです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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