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 しょうちゃんのブログ 折々の記

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2009.08.21
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カテゴリ:シルクロード
 

カルチャースクール「シルクロードのロマンと仏陀の道」を受講して(21年8月19日・項羽と劉邦、垓下(がいか)の戦い・虞美人との別れと四面楚歌

 8月19日、A新聞社主催のカルチャースクールの今期講座(21年7月~9月期)の第4回を受講しました。今回のテーマは、「項羽(こうう)劉邦(りゅうほう)、垓下の戦い・虞美人との別れと四面楚歌」でした。

(上の画像の説明・項羽と虞美人の画像です。中央公論社発行、中国武将列伝上・田中芳樹著の95頁の画像をスキャンしました。)

垓下(がいか)の戦いと四面楚歌

 項羽と劉邦、両雄の戦いは、最初に戦場ではめっぽう強かった項羽が優位に立ちましたが、情深い一方、嫉妬心、猜疑心が強く狭量で、部下への恩賞を怠ったために、人使いのうまい劉邦が項羽側の諸候を切り崩して形勢を逆転させました。

 こうして、紀元前203年、安徽(あんき)垓下(がいか)において天下分け目の合戦が行われ、戦いは漢軍の大勝利に終わりました。

 項羽は垓下に塁壁を築いてたてこもりました。すでに兵はすくなく、糧食も底をついていました。漢軍と諸侯の兵は、ひしひしとこれを幾重にも取り囲みました。

 日が暮れると、包囲軍の兵たちはみな楚の歌をうたいました。歌声は塁壁を越えて響いていきました。四面みな楚歌の声でした。項羽はおおいに驚いて、「漢はすでにことごとく楚の地を手にしたのであろうか。なんと楚人の多いことであろう」

 項羽はこれが最期と知り、今生の別れに、陣中で宴を張りました。

 ()と呼ばれる美人がいました。項羽はこれを寵愛し、いつも彼女をしたがえていました。また彼は(すい)という名の駿馬を持っていて、つねにこれに乗っていました。項羽は悲しみ、自ら詩をつくりうたいました。

  力は山を抜き 気は世をおおう

  時に利あらず 騅ゆかず

  騅ゆかざるを いかんせん

  虞や虞や なんじをいかんせん

 山をも抜くほどの力、世を覆い尽くすほどの気概を自分は持っている。が、時の勢いは自分に味方してくれなかった。愛馬の騅さえ動こうとしなくなってしまった。騅が動かないのでは、どうすることが出来ようか。自分が去ったあとに残さねばならぬ虞よ、おお汝をどうすればよいのか。

 うたうこと数たび、虞はこれに和し、項羽の頬には幾筋もの涙が流れ、左右の者もみな涙にくれ、誰も顔をあげることが出来ませんでした。

 このあと、虞は項羽の足手まといにならぬよう、自ら命を絶ったのでした。そこから可憐なヒナゲシ(虞美人草)が姿を現したと言います。

 まわりじゅう敵だらけの意味で用いられる成語「四面楚歌」は、項羽と劉邦が火花を散らした、壮大な歴史ドラマ「楚漢の戦い」の最終局面を凝縮した表現にほかなりません。

カルチャースクール「シルクロードのロマンと仏陀の道」を受講して(21年8月19日・項羽と劉邦、垓下(がいか)の戦い・虞美人との別れと四面楚歌)

(上の画像の説明・垓下の位置図です。講談社発行、世界の戦争4・中国の戦争、駒田信二編186頁の画像をスキャンしました。)

◎項羽の死

 項羽は残った部下で騎乗する者八百人を率いて、夜、囲みを破って南へ走り去りました。漢軍は夜が明けてからそれに気づき、灌嬰(かんえい)に五千騎をもって追撃をさせました。項羽が(わい)(すい)を渡ったとき、なおよく従う者は百余人に減っていました。

 更に項羽が東城(とうじょう)まで来たときには、従う者は二十八騎にすぎませんでした。追撃してくる漢軍は数千。もはや脱出は不可能だと定めた項羽は、供の騎馬の者に言いました。

 「私は兵を起こしてから今に至るまでハ年間、親しく七十余戦してきたが、あたるところの者は敗れ、撃つところの者は服し、いまだかって一度たりとも敗北したことがない。そしてついに覇を唱えて天下をわがものとすることが出来た。それがいま、こんな苦境に陥っているというのは、つまり天が私を滅ぼすのであって、戦争に弱いからではない。今日はもとより死を決している。ひとつ諸君のために決戦し、必ず三度勝ってご覧に入れよう。囲みを破り将を斬り、旗を分捕ってお見せして、天が私を滅ぼすのであって、私が戦いに弱いのでないことを諸君に知ってもらいたいのだ」

 そう言って、項羽は従騎を四隊に分け、四方に向かって突撃させ、漢軍百数十人を斬り殺したのち再び合流しました。従騎で討たれたのは二騎だけでした。項羽が、「どうだ」と言うと、一同、「大王の仰るとおりです」と答えました。

 それから項羽は長江の渡し場、()(こう)まで逃れました。そこには烏江の亭長が船を用意して待っていました。この長江を渡れば、最初に蜂起したところに帰って、態勢を立て直すチャンスがあったかもしれません。

 ところが項羽は、このときも「天が私を滅ぼそうとするのに、どうして渡れるだろうか」と言って、愛馬の騅だけを乗せていっくれるように頼みました。

 それから項羽は全員に馬を下りさせ、漢軍に最後の戦いを挑みました。項羽ひとりだけでも数百人の漢軍を殺しましたが、自らも十余所に傷を負いました。

 やがて項羽は、漢軍のなかに見知った顔を見出しました。すると項羽は「私の頭には千金と万戸の(ゆう)がかけられているそうだが、私はおまえののために恵んでやろう」と言って、自ら首をはねて、命を絶ちました。

 ときに紀元前202年、項羽は31歳、劉邦は55歳でした。諸候であった漢王劉邦は、最大のライバル項羽が滅んだこの瞬間に、天下のあるじとなり、王から皇帝になりました。漢王朝という長命王朝の始まりです。

 西方では「秦」(chin)の名で中国のことが呼ばれていますが、漢族、漢字、漢文、漢語、漢詩、漢方など、「漢」イコール「中国」に用いる例も、きわめて多いのです。

 この王朝は王莽(おうもう)の簒奪によって紀元7年に滅びますが、200年以上続いたのです。王莽も十数年で滅び、やはり漢の血統をひく(りゅう)()の王朝がつくられ、紀元220年まで続き、ほぼ200年維持しました。王莽期を境にして、この王朝は周知の通り前漢、後漢と呼び分けられています。

カルチャースクール「シルクロードのロマンと仏陀の道」を受講して(21年8月19日・項羽と劉邦、垓下(がいか)の戦い・虞美人との別れと四面楚歌)

(上の画像の説明・漢王朝を起こした劉邦の画像です。カルチャースクールの今回の資料、2ページの画像をスキャンしました。)






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Last updated  2009.08.21 17:43:01
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