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2019/09/04
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カテゴリ:大東亜戦争
インドネシアは17世紀以降350年にわたりオランダの過酷な植民地支配に苦しめられていた。白人至上主義が蔓延していた時代で徹底した愚民政策。利用価値のある一部を除き教育・医療を受けさせず。イスラム教の信仰も禁止した。そして言い伝えがあった・・
《外部より侵入した白い人間に支配される時代が続く。その後、北から黄色い人間が来て、白い人間を追い払う》
そのインドネシアでの言い伝えどおりになる日が訪れた。真珠湾攻撃と同時に日本軍が遂に動いた。1942年、帝國陸軍はわずか9日間でジャワ島の聯合軍を降伏させ、圧政より解放した。日本が資源だけが望みなら真珠湾攻撃も広域に戦争を拡大させる必要などなかった。
米との戦争回避で引く手もあった。何故に欧米列強の殖民地支配に攻撃を仕掛けたのか。大東亜戦争は追い詰められた日本の自存自衛兼欧米列強からの解放戦争だった。この大東亜戦争が無かったら今日のアジアの開放があったかは疑問である。それが証拠に日本が米からの広島・長崎への原爆投下によりポツダム宣言受諾後、イギリス・オランダ軍が再度インドネシアを侵攻、攻め入った。それに抵抗したのがインドネシア独立戦争であった。
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【補注】《武器弾薬を巡って》
※日本がポツダム宣言受諾後、インドネシアの独立派は、予想されるオランダとの戦争に備えるために日本の陸軍将兵・国民を一方的に虐殺し武器・食料を略奪した。帝國陸軍は抑止のため、極めて抑制的な報復攻撃を加えた。インドネシア側は後に複数の検証により自らの非を認めている。

ただし、ポツダム宣言受諾(敗戦)後も日本残留兵千数百名がインドネシア独立戦争のために共に戦っていることからして意図的な武器弾薬の横流しもあったとされている。
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【過去記事より】
インドネシアと韓国の「品格の差」2体の像に滲み出る矜恃 (1/6ページ)

【記事】2014.1.12 08:30 自ら独立を勝ち取った国家と、外国に解放してもらった国家では《品格の差》が滲(にじ)み出る。歴史を正視できる《矜恃(きょうじ)の差》と言い換えても良い。
矜恃あるインドネシアは、防衛省に2011年、大日本帝國(ていこく)の軍人・官吏から不屈の「セイシン(精神)」を学び、対オランダ独立戦争を戦い抜いたスディルマン陸軍大将(1916~50年)の銅像を寄贈した。独立戦争指導者より初代国軍総司令官となった将軍は、教科書や士官学校の戦史教育で登場。目抜き通り名にまでなった。
片や韓国。日本の敗戦後、米国が解放した・・・続きを記事元で詳しく読む



“強制徴用"の神話 経済研究所の李宇衍(イ・ウヨン)研究員


嘘の国民、嘘の政治、嘘の裁判 ソウル大 李栄薫(イ・ヨンフン)教授


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終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示
昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・

【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---
【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】
時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とオランダとアメリカでした。



【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】
日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしました。 資源が少ない日本には大変な死活問題です。 さらに最後通牒(ハルノート)で日本を絞めつけて話し合いに応じません。
やむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していくのです。
1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。
ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。
日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。
(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)
大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。

【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)
ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。
昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。
【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)
日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。
この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。
インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。
しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。

■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■
【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。
東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。

■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■
マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言
1951年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。
【お話のまとめ】
■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。
■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。




インドネシア共和国 初代大統領スカルノ
【動画】インドネシア独立戦争と日本軍
大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。
大東亜戦争を世界はいかに評価しているか

------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------





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Last updated  2019/09/05 08:37:50 AM
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