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2011/11/01
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カテゴリ:旅行
タール湖の夕暮れ
長くなるから書かないつもりでいたが,昨夜BS日テレの心の歌で『ああモンテンルパの夜は更けて』を聴いたときに,
「モンテンルパは確かフィリピンだったはずだが,場所はどの辺りだろう?」とネットで検索してみた。

あった『モンテンルパ』,首都のマニラから少し南東に下ったところで,画像のタール湖畔の家で『田舎に泊まろう』をしたときに車で通ったところだった。

キリノ大統領の日本兵恐喝処刑の刑務所あった場所だからそれを恥じて教えなかったのか,ただ単に同行したフィリピンのブラザーが知らなかっただけなのか,それはわからない。

リパの郊外にあるその修道会経営のコミュニティーを訪ねたとき,ちょうどミーティングの最中だったが,言葉が英語ではなかったために内容は一切分からなかった。ミーティングの中で,突然の訪問者を,「オーストラリアから4人,日本から2人のお客様だが,日本から2人のうち,一人はドイツ人で,もう一人は日本人。」というように紹介があったらしい。

ところが第二次世界大戦の傷痕と,日本企業の進出で日本人にはあまり好意的ではないようだった。

ミーティングが終わり,教室を出たとき一人の女性が近寄ってきて私に言った。

「You are a yoi Japnese.」「”yoi”とはどういう意味だろう」と思っていると,今度は「You are a good Japanese.」と言い直した。日系企業で働いたことあったらしい彼女は,日本人に対して嫌な思い出があったようだった。(同行の神父さんからあとから聞いた話。) 自分の言いたいことだけを言い,したいことだけを強引にしてしまうのが,彼女が思っている日本人だ。ココナツ林とバナナの木以外何もないような貧しい村に来るような日本人は,大戦以後ほとんどいなかったのだろう。彼女にしてみればそんなところに来る日本人は,心のやさしい人に見えたのだと思う。

 さて,その夜宿泊する場所は,タール湖の船着き場からカヌー両側にフロートが付いたボートで20分くらいかかる場所にあった。到着してみると,それはそれは素敵なバンガローだった。家の柱はココナツの木,壁と床は竹,屋根はココナツの葉で葺いてあり。電気はなかった。水道はないが,大きな水源地をかかえている,湖の水を飲み放題だ。普通はガスもないが,われわれの食事を準備するために,携帯用のガスコンロを準備したそうで,通常薪で炊事をするとのことだった。夜の照明は,これも我々のために明るい灯油ランプを準備してくれたが,いつもは150cc位のドリンク剤のスクリューキャップに穴を開け,そこに芯を差し込んだ簡単なランプだけで夜は過ごすそうだ。
 その夜,夕食のメニューはスパゲティーとパン,そしてコーヒーだった。食べる前に,その日の我々6人の食費は5,6人の家族が1週間は楽に食べられるだけの食費だと聞かされて,かなりショックだった。(食費は後で修道会から支給された。)

交通手段がボートしかない辺鄙な場所にもかかわらず,近隣の家から毛色の違う外国人を見ようと,子供たちとその母親が,夕食の前から集まってきた。衆人環視の中で夕食を済ますと,話や歌が始まった。地元の年寄りや小さい子供たちは英語が理解できずタガログ語だけ,若い人たちはタガログ語と英語,当然オーストラリアの人たちは英語だけ,同行の神父さんはドイツ語・日本語と英語,私はほとんど日本語だけ,という奇妙な(?)おしゃべりをした。

地元の人の中に,年の頃5~60歳くらいの人がいて,たどたどしい英語でおもむろに喋り始めた。
「私のお爺さんは,大戦中にゲリラとしてあなた達日本人と戦っていた。そして,あなた達日本人に殺されてしまった。今まで日本人を憎んで来たけれど,あなたがわざわざここに来て,一緒に話をしたり,歌を歌ったりしてくれて,どうにか日本人を許せる気持ちになった。」と言った。

私は,世界で唯一の被爆国であり,沖縄戦で民間人が犠牲になった国であることだけを認識していた。日本人から肉親を殺された話を聞いて,日本人として恥ずかしさと歴史の認識の甘さを反省させられ,偏った教育しか受けていなかったと気づかされた。







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Last updated  2011/11/01 05:08:41 PM
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