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大野明子著・メディカ出版
副題は「いのちの現場から出生前診断を問う」。 これを読んで、いまの管理されたお産への疑問、障害をかかえた子供をどうとらえるか、産み育てる権利・・といった、自分の中で結論が出せないでいた答えの、根拠を得たような気がしました。 著者は産科医。もとは地球化学を研究していたのに、自分のお産をきっかけに、医療を勉強しなおしたという経緯を持つ人です。いまは東京で「自然なお産とおっぱい子育て」を世話する「お産の家」を開いているそうです。(こういうところで産みたかったなあ) 著者自身、出生前診断をどう考えるかで悩んでいたようです。子供を選ぶことに疑問をもちながらも、診断できる可能性を伝えなかったことで先天的障害を持つ子がうまれたときに訴訟に巻き込まれるのをおそれていて「あいまいな姿勢」をとっていたと。(この辺、率直に書いているところがすごい・・・) そうした気持ちをはっきりさせたのが、ほかならぬダウン症をもって生まれた子供たちと、その親たちだったようです。どんな障害をもっていても、この子はこの子だと、受け入れた親に愛されて、ゆっくり育っていく子供たち。障害を個性のひとつとしてみたときに、子供たちが持つ穏やかさ、素直さといった「すぐれた資質」や周囲に与える影響力に、「社会にとって必要だから生まれてくる」ことを確信したといいます。 どんな子供も受け入れる。。というのは難しいことなんだろうと。でも、産む決心をしたのならどんな子でも受け入れる親でなくてはならないと、著者はきっぱりといいます。 うん、それが産むという責任なんだろう。(望まない妊娠は別として) 子供は生まれたとたん、親の占有物ではなくなるわけで、自分の都合で、いる、いらないなどと判断してはならないのだと、私も思います。 本文のほかに、臨床遺伝医の長谷川知子氏のインタビューと、ダウン症の子を持つ親たちの座談会が、さらに著者の考えに対する説得力を高めています。 長谷川先生は出生前診断を「胎児虐待」だといいきってる。将来この子が困るだろうからとか、育てられないからでなく、親がつらいから中絶するのだと。 だいたい、生まれると、自分や相手の親たちから攻められる、そういう子を産んだのは自分のせいにされることへの自己防衛をせざるをえない。それを長谷川先生は否定するのでなく、そういうものだということを明らかにした上で、自己防衛しなくてすむようにケアされることが大事だといいます。 まず、先天的な異常があると、早産や流産というかたちで生まれてこない。自然淘汰される。そこを、生まれてきたということはお母さんがよかったからだよと、この子に生きる力があって、必要だから生まれてくるのだと。 医師が長谷川先生のように説明してくれたら、どんなに前向きに育てられるだろう。 障害があるからといって、医学的に問題がなければ、すぐに母子を分離してしまわないことも大切なようです。生まれてすぐにおっぱいをあげることで、きずなが強くなる。普通の病院ではなかなかかなわないことのようですが。 ダウン症の子供を育てているお母さんたちも、受け入れるまでのハードルは自分自身だったと答えています。それを乗り越えて、いま、自分のところに生まれてきてくれてよかった!と口をそろえてる。 著者自身、いろんな奇跡を経験したそうです。診断を拒むかのように一時的に破水をおこしながら、もちこたえて生まれた赤ちゃん。絶対絶命ながらあきらめずに生まれてきた赤ちゃん。ぎりぎりまでは、子供の生まれる力を信じて、それに逆らわないお産を援助する。助産というのは、そういうものだったのでないでしょうか。病院の都合で、陣痛促進剤を打ったりするのは論外です。 親が選ぶのでなく、子供自身が生きることを選んで、うまれてきたのだと。そういう姿勢で出産、育児というものをとらえることが、いろんな問題を見る基本になることを教えてもらった気がします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004.05.16 09:12:16
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