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先進国には、記号的な意味に対する多大な消費を
する人が数多く存在する。 物質的な意味が存在していても、 記号的意味をなくしたものを捨てる。 そして、新しく意味を付加されたものを買い続けるのである。 それが資本主義社会の大量生産大量消費を支えており、 その異常さを作り出している。 なんのことやら、と思った人も いるかもしれないが、たまにはこういう考察もありかな、 と思いまして。 ■ まだ着られる服や物を捨てた経験はないだろうか? その服や物をなぜ捨てたのだろうか、と考えてみてほしい。 時代遅れのデザインの物だから、 もう自分の系統とは違う服だった。 そんな理由で物を捨てたことがある人は 多いのではないだろうか。 サイズが小さくなってしまったとか、 物質的な価値を失っているケースを除くが、 そのモノたちは、物質的な価値は失っていないのだ。 あなたが感じているように、まだ「使えるもの」だったのだから。 そのモノたちが失ったのは記号的な価値なのだ。 流行が去れば、モノたちは価値を失うのだ。 ■ 記号的な意味は、様々なものに存在している。 例えば服、髪型、話し方、人付き合いの方法、価値観などなど。 B系とか、お姉系とか、そういうラベルを人に貼ることで、 人をある程度判断するように、 自分自身にラベルを貼ることで、他者から見られる自分と、 自分が演出したい自分が一致させたいのだ。 そのことで得られる安心感を得るために、 人は自ら個性的であることを捨てるのである。 ■ 個性的であるということは、 自由に自分を表現することであり、 同時に人に「おかしい」「ダサい」と思われるリスクも同時に 背負わなくてはいけない。 人はそのリスクから逃れるために、 自らにラベルを貼るのである。 だから人は、自らに貼ったラベルからずれない 範囲内での個性の主張をする。 同じB系ファッションだけど、あいつよりはおしゃれ、 とかそういうちょっとした差に個性を主張するのである。 ■ ただ、自らにラベルを貼ったものの、 ラベルは次々とカタチを変えてゆく。 流行っていうやつが存在するのだ。 流行が変化すると、 少し前まで自己表現に近いと思っていたものが、 その記号的意味を喪失するのだ。 つまり、ちょっと前までおしゃれだったものが、 時代遅れ、ダサいものになってしまうのだ。 人はその喪失を補うための消費を繰り返すのである。 資本主義社会で、まだ使えるものを捨てさせて、 新しいものを買わせる仕組みとはまさにこの 記号的な価値を喪失させることに他ならない。 ■ 面白いのは、同じファッションでも、 場所によってその記号的な意味が変化するということだ。 例えば日本でお姉系という記号を与えるファッションも、 インドに行けば「金持ち」という記号でしかなかったりする。 それによって物乞いたちにたかられる恰好の標的に なったりする。 そうした時に、人はそのファッションへの執着をやめて、 むしろ汚い服を自ら着たりする。 そうすることで「金持ち」という 記号をつけることの弊害を避けようとするのだ。 ■ こうしたことを考えると、 資本主義社会って少しおかしいということに気がつく。 価値のあるものをあっという間に 価値のないものに変えてしまうのだから。 それが流行であり、それを作り出すことで儲ける人たちが 沢山いるのだ。 ただ、これで社会主義の方がいいとか、 ネットワークビジネスのほうがいいとか言うつもりはない。 その辺への考察は、また今度。 ただ、今日は少しこんなことを考えた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004年10月24日 11時46分13秒
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