カテゴリ:歴史・歴史的人物
沈丁花 江戸の人口が急増し、溜池や神田上水では飲料水が賄えきれなくなり、江戸城内の武家でさえ上水道がない時代、下々ではお堀や溜池の水を桶に汲んで用いていた。 町奉行神尾備前守は、水筋があれば願い出るようにと玉川兄弟の親達に命じた。 庄右衛門、清右衛門の兄弟が水筋を探したところ、羽村(現羽村市)から玉川(多摩川)の水を引くのが良いと判断し、江戸まで13里(49キロ)の用水路を作ることを、絵図、書面にして評定所へ願い出た。 幕府の役人の見分の後、1652年12月25日、直ちに工事を始めるようにと命じられ、金6千両を賜った。 4月4日から掘り始め、11月15日には四谷大木戸(甲州街道入り口)まで掘り進んだ。 それまでに金6千両は使い果たし、自分達の財産2千両と、屋敷を売った1千両とで、虎ノ門まで掘りあげた。 兄弟は、玉川の苗字を許され、その後、上水役となって給料を与えられるようになり、武家からはその身分によって、町民からは屋敷の面積によって、上水修復料が与えられるようになった。 また玉川上水から多くの分水を出し、それを利用する地域からも修復費を与えられ、それが玉川家の収入となった。 しかし、60年を経た1715年ごろには収入が減り、次第に困窮するようになった。 予定通りの利益が上がらなくなったので、修復も充分には行われず、上水は流れない場所が出てきた。 そこで賄賂を持ってきた地域へは水門を広く開けてやり、賄賂がない地域では水不足になった。 そのため、玉川家三代目は免職になり、江戸はらいにされた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.03.09 17:53:49
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