カテゴリ:歴史・歴史的人物
安徳天皇が即位した1180年、源頼政は後白河上皇の皇子以仁王を奉じて挙兵し、失敗した。 しかし彼の意思が全国へ伝えられ、諸国の源氏が次々と挙兵し、木曾の義仲や伊豆の頼朝が立ち上がり、東国一帯を支配下にした。 義仲は京都から平氏を追い出すことに成功したが、その後孤立してしまい、頼朝の弟義経によって滅ぼされた。 その間、西国で勢力を盛り返した平氏は、一の谷、屋島の合戦で、義経率いる東国軍に破れ、1185年壇ノ浦で滅亡した。 平氏滅亡後、義経が後白河上皇と組んで、兄頼朝と対立し、頼朝は義経を捕らえるために、国ごとに軍事、警察、御家人の統率を仕事とする「守護」と、荘園、公領の管理、年貢の取り立て、警察の役目をする「地頭」を置くよう朝廷に迫り、それの任命権を得た。 さらに弟義経が、奥州の藤原氏に匿われていると判ると、藤原氏もろとも攻め滅ぼしてしまった。 全国の軍事支配権を持った頼朝は、朝廷での高い位は望まず、東国中心の武家政治を、鎌倉に開始し、1192年、征夷大将軍に任命された。 鎌倉幕府の仕組みは、武士の統率を目的とした実際的なものだった。 鎌倉幕府は、将軍と武士との間の主従関係によって成り立っていた。 将軍は配下の御家人の領地を保護し、守護や地頭に取り立てて新しい土地を与えた(御恩)。 御家人は将軍に忠誠を誓い、戦が起きれば命がけで戦う義務(奉公)を負った。 この領地を介した御恩と奉公の関係で結ばれた制度を封建制度という。 しかし、朝廷から任命されていた国司が各国に残っていたので、一つの国に朝廷と幕府の二つの支配系統が併立することになった。 また、守護、地頭のほかに、中央には御家人の統率と軍事を司る(侍所)、幕府の財政を受け持つ(公文所、後の政所)裁判を受け持つ(問注所)が置かれていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.04.01 12:03:42
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