テーマ:道徳。(180)
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考えて、時間が過ぎて、最後に残る感情は何だろうか。
まだ、俺には答えはやってきていません。 ずっと歯噛みしながら悩み、 対外的には理解が増えているように見え、 内面ではずっと考えていた事による「慣れ」があるだけで、 全ての感情はいつでも存在しています。 号泣はしないが悲しみが支配する時もあれば、 大きなため息は無くなったけれど後悔に苦しめられる時もあります。 強いて言うなら感情の懐の深さ、です。 俺はこの歳にして、自然を愛でる事が大好きで、 定年間近の先輩達とお話しする事がとても楽しい、 周りの同年代からは「変な人」になりました。 感情を刺激する事が多くなり、少しの事で感じられ、 多くの事でも動じなくなって来ました。 それがいいのか悪いのか。 俺にも解らない、迷っているところです。 時々ね。 死ぬんじゃないかって、変な気持ちになる事はある。 余命を宣告された患者が、 道ばたで揺れる雑草を見て涙するって感覚が、 いやに実感を伴って共感出来るというか。 人間のはかなさや愚かさが心をぐっと掴んでいるのかなって。 当たり前な事って無くなる事も当たり前な事に気付いてしまった感覚は、感情よりも前に存在し続けていて、そこから感情が生まれているのかな。 でも、脳って実に自分に都合良く動くのは、 感覚として感じている。 現実に悲惨な事故のニュースを見ていても、 どこかで自分と比べてしまう。 あぁ家族皆亡くなったのか、可哀想だな、俺は生きている、 家族も元気だ、良かった、なんて。 もうそれは日常の至る所で行われていて、 雨が降り、傘をさしていない人を見ても、 ああ、俺は傘を持ってきて良かった、って。 駄目だな、危ないなっていつも思っているんだけど、 いつの間にか染みついた思考なんだ。 厭世観とも言えない自虐的な感情は常に付きまとっている。 俺はなんで生きてしまっているんだろうって。 だからといって神や仏の存在は認められないけれど。 まだ答えが出ないから、悩みは今も続いている感じです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.04.14 14:41:02
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