テーマ:道徳。(180)
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社会というシステムの枠組みから、
有資格の職業が生まれている。 だから絶対視しなければ成り立たないと考えてよろしいかと思います。 なぜか。 紙幣がシステムに組み込まれた価値を崩せないように、 超法規的に法律を公的に免除出来ないように。 社会のシステムに則っている以上、まずは絶対視する必要があります。 今話題のNHK受信料をめぐる一連の問題と同じ事で、 まずはその枠組みによる責任をまっとうした上で、 その枠組みの必要性、ないし改変の主張が出来るわけで、 責任を放棄した上で、様々な主張をするのはあまりにも説得力が無い。 社会に対して主張をする為に、まずは権利を有する必要があると思いませんか? 今それが出来ているかどうかという議論は置いておくとして、 資格制度を作ることでその職業そのものの適正を目指すことが可能です。 免許の更新制度を一つ制定するだけで、幾分改善の兆しが生まれます。 適正の無い者を規制し、免許を剥奪することによって、 存在を排除することも可能です。 教育とはまさに誰もが可能な行為です。 が、自由に解き放つと極端ですが思想教育も自由に出来る事となります。 ここでなぜ社会のシステムに資格という制度を 教育に対し課したのかの意義が見えてくると思います。 あくまでも教育の「需要と供給」は社会と教育者にある。 教育の本質は、教育を受ける者は結果的に需要しているに過ぎない訳です。 塾という制度の順当な役割はその流れの中から落ちこぼれた者を救い出し、 社会に還す事が役割であるべきです。 ならば、そこにもやはり資格は有するべきだと思いませんか? 現実に教職にて適わない部分があるように、 塾にもその本質から逸脱した状態が散見されます。 いや、散見どころではなく、それが今は本道となり、主流です。 テストの点数を上げる事に腐心し、本質を攻略する為の存在と化しています。 また、その存在を教育を受ける者、受けさせる者が求め、 それに対して供給をし、肥大化しています。 「需要と供給」の需要側の対象者を完全に逸脱し、単なる商業施設とも言える状態です。 それが今は主流となり、学歴主義がより一層加速し、社会のシステムを崩しています。 しかもこれは資格も免許も無く、完全な無法地帯ですから、 改善、是正が不可能なのです。 目指せ東大と鉢巻をして阿呆面さげてテレビに出てくる事も、 出題の傾向を割り出し、「局所的」に教育し、攻略方法を教育する事も、 精神修行と言い、体罰を行う事もまさに自由です。 教育は誰でも出来るからこそ、 誰でもして良いとなる事が恐怖なのです。 教育の役割がそのまま社会のシステムとして機能していく以上、 やはり適正が必要だと思いませんか。 今まさに格差問題が話題です。 私は格差自体はある程度許容されるべきだと思います。 が、財力に飽かせて助長出来る根源はまさに教育の無資格が原因だと言えます。 教育の向かう先は社会の構築であり、そこに産業を挟む余地はありません。 売春と同じで売る者が居るから買う者が存在するのです。 「誰にでも出来る」のであれば、買いたいと願う者が努力することも可能なのです。 良い企業に勤める為、良い大学に入る。 良い大学に入る為、良い高校。 それが幼稚園にまで遡り出してからかなりの月日が経ちました。 「お受験」という言葉が生まれた時の子供はもう社会の中心に居る頃でしょうか。 まだ現在中枢は団塊の世代が中心で、幾分是正されているでしょうが、 ちょうど今その世代が去ろうとしています。 品格を失い、人格も歪んだ世代が社会の跡取りです。 もちろん今も脈々とその流れは続いています。 私は教育改正の流れの中で、 特に塾のあり方を重点的に審議して欲しいと思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.04.20 08:42:43
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