テーマ:道徳。(180)
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ゆとり教育は途中放棄。
まさにその通りでわが意を得たり。 ゆとり教育の理念自体は実にリアリティのある指針だった。 学力の向上は必ずしも社会の向上とは繋がらないのは俺でも解る。 しかし学力の向上と学歴は比例させなければならず、 結果として学力は社会へ巣立つ為に必要だという認識は確固たるもののまま。 例え内容自体が社会とは乖離していても、それ自体が社会に出る際の指針である以上、 「ゆとり」という言葉の響きがそのまま不安材料になってしまった。 その漠然とした不安がそのまま学歴温存への流れになり、 学力思考を助長させ学習塾などにしわ寄せが行ってしまったんだと思う。 しかし現実に目を帰せば、学歴に対して実に冷静な目というのが着実に増えている。 学力=学歴という図式は変わらないが、学歴=幸せとは一概には言えなくなっている。 その流れの中でゆとり教育はまさに今から活躍するものだった。 テストの成績=学力という考え方を改め、社会の中で生きていく為の学力を模索する教育。 何か本当に利権の暗躍がゆとり教育を排除してしまったのかと錯覚するほど 方向転換は絶妙なタイミングだった。 ただ、俺はこの方向転換は長く持たないと確信している。 俺の子が大学へ行く頃には間違いなく 「大学は誰でも当たり前に入ることが出来る施設」になっているだろう。 その価値観の中テストの成績を向上させたところで、 学力というものに価値が高まるはずがありません。 単刀直入に言えば、受験勉強など覚える価値を見出せなくなる。 教育界における「苦戦」はこれから始まっていくと思われます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.04.27 11:38:24
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