2009/10/15(木)12:26
1975年10月15日
今から34年前、すでに最下位が決定した巨人の後楽園での最終戦では、消化試合にも関わらずスタンドは満員の観客であふれていました。
しかもビジターのレフト側だけでなく、ホームのライト側も赤い応援団で埋め尽くされていました。
このシーズン途中で日本ハムからカープに移籍してきた、あの大下剛選手でさえもその光景を見て「足が震えた」と言います。
原爆からの復興のシンボルとして、広島にプロ野球球団が設立されたのは1949(昭和24)年のことでした。
しかしながら資金力に乏しく、広島市民からの「樽募金」によって球団経営を支えていた状況です。
成績の方も全く奮わず、優勝はおろか常に最下位を走っていたため、「セリーグのお荷物」とか「西から陽が昇ってもカープが優勝することはない」とまで言われる始末です。
さらに当時甲子園で広島商業が活躍していたことから、「広商に野球を教えてもらえ」などと野次が飛ぶ有様でした。
そんな中、1975年に広島カープの監督に就任したのが、初のメジャーリーグ出身監督、ジョー・ルーツです。
ルーツ監督は今のカープに足りないものは闘争心だと言い、まずはヘルメットと帽子の色を紺から赤に変えました。
現在ではさほど珍しくもないのでしょうが、当時としてはかなりセンセーショナルだったと思います。
当然選手の抵抗も強く、衣笠選手などは「とても恥ずかしかった」と胸のうちを明かしています。
さらにルーツ監督は大胆な改革を行うと共に、選手に徹底して闘争心と優勝の意識を植え付けていきました。
(当時のカープに「優勝」と言っても、誰も信じなかったことでしょう)
そんなルーツ監督ですが、5月阪神戦で審判の判定に抗議した際、球団フロントがグランドに入って仲裁したことを不服として、わずか三週間で自ら監督を辞めて帰国してしまいました。
それでもルーツはカープの優勝を信じており、「秋に優勝したら祝福に駆けつける」との言葉を残して日本を去っています。
そのルーツ監督の後を受けたのが、コーチから昇格した古葉竹織監督です。
古葉監督はルーツ監督のスピリットを受け継ぎ、選手も若き指揮官の下で着実に勝利を重ね、カープの快進撃は「赤ヘル旋風」や「赤ヘル軍団」と呼ばれて社会現象ともなりました。
ちなみに古葉監督と言えば、ベンチ裏で見え隠れしていた思い出がありますが、その当時の映像を見ると、三塁コーチボックスで腕をブンブン振り回しているのが印象的です。
そして1975年10月15日の後楽園での最終戦、4-0と広島リードで迎えた9回裏に巨人柴田のフライをレフト水谷選手が掴んだ瞬間、広島カープは悲願の初優勝を達成しました。
優勝祝賀会では、あのジョールーツ監督も「約束どおり」アメリカから駆けつけてくれました。
またその後の広島での優勝パレードには、30万人の観衆が通りを埋めつくし、遺影を掲げてカープの初優勝を喜ぶファンの姿も数多く見受けられました。
インタビューの中で、その時のことを振り返りながら、涙を浮かべて声を詰まらせる古葉監督の姿が印象的です。
あれから34年、今やカープの冠名から「常勝」や「投手王国」の文字は消え、12年連続Bクラスの低迷に甘んじています。
赤ヘルの生みの親、ジョールーツ監督も去年の10月20日にこの世を去ってしまいました。
思えば最後に優勝したのは1991年、新設の楽天を除いて、12球団中最も優勝から遠ざかったチームになっています。
ずっとカープファンを続けてきましたが、カープファンにとってはつらく長い年を過ごしており、あの初優勝の時のような喜びをもう一度味わいたいものです。
来年からはブラウン監督に代わって、若き野村謙二郎監督が指揮を執ります。
優勝の喜びを知る監督に期待をかけていますが、今のカープに足りないものはなんでしょうか。