パクス・ジャポニカ Vol.2

2022/02/02(水)07:01

馬加城(下総国)

城跡と史跡(千葉編)(69)

「馬加」を普通に読むと「バカ」となってしまうのですが、「馬加」と書いて「まくわり」と読み、千葉氏の一族である馬加(まくわり)氏の居城でした。 また「まくわり」が、「幕張」の地名の由来ともなっています。 JR幕張駅から北に向かって行くと、丘陵状の台地があり、ここに馬加城があったと推定されます。 丘陵部は切岸状になっていますが、果たして城郭の遺構なのかどうか。 その台地の上に上がってみると、一面の畑が広がっているだけでした。 振り返ると畑の向こうに幕張新都心のビル群が並んでおり、なんとも面妖な光景です。 さらにはひときわ高いマンションが建っていましたが、ここが馬加城の本丸部分だと言われています。 手前には土塁のようなものが見えています。 近づいてみると、土塁の跡に見えなくもないのですが。 果たしてこれが馬加城の遺構なのかどうか 結局遺構らしいものは発見できないまま、馬加城を後にしました。 馬加城は千葉満胤の庶子である馬加康胤が居城としていました。 1455年に(古河公方)足利成氏と関東管領上杉憲忠の間に「享徳の乱」が勃発した時、馬加氏の宗家である千葉氏は上杉方につき、馬加康胤は古河公方足利氏方につきました。 この争乱で馬加康胤は宗家の千葉氏を滅ぼし、千葉氏の宗家を継いでいます。 滝沢馬琴の南総里見八犬伝には、馬加大記なる人物が登場しますが、馬加康胤の同族だとされています。 (馬加大記は八犬士の1人である犬阪毛野の親の仇で、また同じ八犬士の犬田小文吾を石浜城に幽閉したりと、大悪人として登場します) やがてこの争乱は千葉氏の内紛を引き起こしたばかりか、北条氏と里見氏の対立に発展し、房総の争乱へと発展していきました。

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