2022/02/02(水)07:01
馬加城(下総国)
「馬加」を普通に読むと「バカ」となってしまうのですが、「馬加」と書いて「まくわり」と読み、千葉氏の一族である馬加(まくわり)氏の居城でした。
また「まくわり」が、「幕張」の地名の由来ともなっています。
JR幕張駅から北に向かって行くと、丘陵状の台地があり、ここに馬加城があったと推定されます。
丘陵部は切岸状になっていますが、果たして城郭の遺構なのかどうか。
その台地の上に上がってみると、一面の畑が広がっているだけでした。
振り返ると畑の向こうに幕張新都心のビル群が並んでおり、なんとも面妖な光景です。
さらにはひときわ高いマンションが建っていましたが、ここが馬加城の本丸部分だと言われています。
手前には土塁のようなものが見えています。
近づいてみると、土塁の跡に見えなくもないのですが。
果たしてこれが馬加城の遺構なのかどうか
結局遺構らしいものは発見できないまま、馬加城を後にしました。
馬加城は千葉満胤の庶子である馬加康胤が居城としていました。
1455年に(古河公方)足利成氏と関東管領上杉憲忠の間に「享徳の乱」が勃発した時、馬加氏の宗家である千葉氏は上杉方につき、馬加康胤は古河公方足利氏方につきました。
この争乱で馬加康胤は宗家の千葉氏を滅ぼし、千葉氏の宗家を継いでいます。
滝沢馬琴の南総里見八犬伝には、馬加大記なる人物が登場しますが、馬加康胤の同族だとされています。
(馬加大記は八犬士の1人である犬阪毛野の親の仇で、また同じ八犬士の犬田小文吾を石浜城に幽閉したりと、大悪人として登場します)
やがてこの争乱は千葉氏の内紛を引き起こしたばかりか、北条氏と里見氏の対立に発展し、房総の争乱へと発展していきました。