パクス・ジャポニカ Vol.2

2022/04/05(火)16:16

東海道宮宿(愛知・名古屋市)

東海道五十三次(54)

東海道五十三次の宿場めぐりも、ようやく江戸日本橋から数えて41番目、五十三次の4分の3を超えてきました。 (世の中には「4分の3症候群」なるものがあり、後半になると精神的な苦痛が出てくるそうです) 宮宿の旧東海道は熱田神宮の南側を通っており、別名「熱田宿」とも呼ばれて、熱田神宮の門前町としても栄えていました。 歌川広重「東海道五十三次 宮」 当時の宮宿には、本陣2軒・脇本陣1軒と旅籠屋が248軒もあり、東海道最大の宿場町だったのですが、現在は戦災で宿場町は消失してしまい、往時の賑わいは遠い過去のような感じです。 宿場町入口付近の旧街道 道幅は当時のまま残っているようです。 旧東海道も普通の生活道路に変わっていましたが、所々に史跡看板が立っていました。 裁断橋と姥堂(いずれも復元) 裁断橋は宮宿の東の外れを流れる精進川に架かっていた橋で、大正時代になって、地元の人によって擬宝珠がこの場所に移設されました。 姥堂は1358年に創建されたもので、本尊である姥像は熱田神宮から移されたものです。 太平洋戦争の戦災で焼失したため、平成5年に本尊が復元されています。 裁断橋と姥堂の横には、「都々逸発祥之地」の碑もありました。 由緒はよくわかりませんが、東海道とはあまり関係がなさそうです。 宮宿の東海道は国道1号線と並行するように通っているのですが、現在は脇を通る普通の道路に変わっており、本陣付近の旧街道も裏道といった風情です。 本陣跡付近の街道沿いには、ひつまぶしの発祥と言われる蓬莱軒があります。 西へ向かってほぼ直線に続いていた東海道ですが、ほうろく地蔵の所で南へと向きを変えていました。 ほうろく地蔵 ここは美濃街道との分岐点でもあり、曲がり角には道標が残っています。 道標が残っているだけでも奇跡のような気がします。 南に方向を変えると、当時はすぐ目の前に海が広がっており、その先の東海道は海路となっていました。 桑名宿までは「七里の渡し」となっており、その船着き場の跡が公園として整備されています。 宮の渡し公園 宮の渡し付近は賑わいをみせていたようで、この付近には熱田魚市場も置かれていました。 1537年にはすでに魚問屋があり、織田信長の居城である清須城に毎日魚を運んでいたそうです。 当時は目の前に伊勢湾が広がっていたのですが、現在の海岸線ははるか先にあります。 宮宿の次は一気に飛んで伊勢国の桑名宿なのですが、なかなかピンとこないものです。 関連の記事 熱田神宮(2009年8月)→こちら

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