2017/07/07(金)14:19
島原城(肥前国)
日本100名城の中で、島原城を訪れるのはいつのことかと思っていたら、存外早く訪れることができました。
雲仙岳が見下ろす島原半島の東側、有明海に面したところに島原城があります。
総石垣造りの近世城郭で、現在は本丸と二の丸の外堀と石垣が残っていました。
西の櫓の石垣
熊本城のように扇の勾配を持った見事な高石垣です。
熊本城と同じく火山灰の土壌にあっては、加藤清正流の石垣を参考にしたのでしょうか。
屏風折れになった本丸石垣
石垣を見る限りでは堅固な印象ですが、島原の乱では攻め寄せる一揆軍に対して、籠城戦で応じたそうです。
本丸と二の丸の間にも堀が巡らされており、それぞれ独立した城郭のような感じでした。
二の丸の曲輪跡
山頂部分は雲に覆われていますが、雪を戴く普賢岳を望むことができました。
本丸と二の丸は大きく分断され、曲輪の間には石造りの土橋が架かっていました。
本丸と二の丸の間の堀(二の丸から見たところ)
水堀になっていたのかも知れませんが、ここに攻め込まれると本丸と二の丸が完全に孤立する格好になってしまいそうです。
建物は明治になって取り壊され、現在本丸にある天守や櫓は後世になって復興されたものです。
本丸の復興天守
層塔型の天守です。
島原城には大小合わせて50近くの櫓が建っていたそうですが、明治になってから取り壊され、現在は隅櫓がいくつか復興されていました。
丑寅櫓
巽櫓
櫓と櫓の間を歩いていると、現在も有明海を間近に望むことができました。
島原城は江戸時代に入った1618年に築城が開始され、1624年に完成しました。
築城主は大和五条から移封となった松倉重政で、検地による石高は4万石とされています。
4万石にしては立派な大城郭ですが、領民はかなりの労役を強いられたことと思います。
そして1637年、松倉氏の圧政に苦しむ領民が蜂起し、16歳の天草四郎時貞を総大将とする島原の乱が勃発しました。
本丸にある天草四郎像
最終的に島原の乱は幕府討伐軍によって鎮圧されましたが、島原城主であった松倉勝家は過酷な年貢取り立てで一揆の原因を作ったとして、改易の上斬首に処せられています。
武士の名誉である切腹ではなかったのですが、江戸時代において斬首に処せられた大名は、後にも先にも松倉勝家だけだそうです。
(財)日本城郭協会「日本100名城」