パクス・ジャポニカ Vol.2

2017/07/05(水)16:47

金砂山城(常陸国)

城跡と史跡(茨城編)(32)

「困った時の神頼み」とは言いますが、佐竹氏にとっては困った時の金砂山城だったでしょうか。 金砂山城は太田城の詰城のような存在ではあるものの、太田城からは北に約15Kmも行った西金砂山の山頂にあります。 この西金砂山のそのものが天然の要害のような感じです。 林道のような細い道を登っていくと、山頂付近に「杜の湯」と西金砂神社があり、杜の湯の隣に曲輪の跡がありました。 西金砂神社 曲輪跡 杜の湯側 土塁跡のようにも見えますが、遺構かどうかはわかりませんでした。 1180年に伊豆蛭ヶ島に流されていた源頼朝が挙兵した時、第3代当主の佐竹秀義は、源頼朝に参陣しませんでした。 源頼朝は佐竹氏討伐のために常陸へと攻め込み、佐竹氏も太田城から金砂山城に籠城して応戦、激しい攻防戦が展開されたものの、最後は内応によって落城しています。 源頼朝もはるばるここまで追討してくるとは、恐ろしい執念です。 時代は下って鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代、佐竹氏は足利尊氏の北朝方についたため、南朝方の北畠親房や瓜連城の楠木正家との間で戦いとなりました。 この時も太田城から金砂山城に移って籠城し、南朝方を打ち破っています。 そして1490年、佐竹義舜が一族の山入との内紛によって太田城を追われ、この時も金砂山城に立て籠もって抗戦しました。 籠城戦の末に形成は佐竹氏に有利となり、後には本拠地である太田城を奪還しています。 三度の危機を金砂山城の籠城戦で有利に戦い抜いたことから、以後金砂山は佐竹氏開運の山として西金砂神社と共に崇敬されてきました。

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