パクス・ジャポニカ Vol.2

2022/02/02(水)05:19

津久井城(相模国)

城跡と史跡(神奈川編)(66)

相模川上流にある津久井湖は、城山ダムによって造られた人造湖です。 津久井湖 城山ダムの名前にある通り、津久井湖畔の城山が津久井城跡で、城跡というよりも城山全体がハイキングコースになっていました。 津久井湖のある画像の下側が北になり、北側(下側)が搦め手で南側(右上)を大手と見るのが妥当なところでしょうか。 茶色のシミのようなところは曲輪の跡で、本城曲輪(本丸)と東側(左側)の飯縄曲輪の周りには、斜面に沿って腰曲輪が配されているようです。 津久井湖からだと搦め手方向から上がる格好になりますが、等高線もかなり混んでおり、おまけにクサリ場まであるようでした。 右側(西側)から直で本城曲輪に至る道もありますが、まずは北側の等高線に沿って飯縄曲輪を目指すことにしました。 こんな山登りになるとは想定しておらず、全くノーマルな格好で来てしまったのですが、それでもなかなか快適な山歩きでした。 山ひだ(竪堀)を巻きながら振り返ると、木々の間に津久井湖の水面が見えていました。 戦国時代には城山ダムも津久井湖もなかったので、ずっと深い谷だったと思われます。 クサリ場を越えて東側の斜面にとりつくと、間もなく飯縄曲輪に到着しました。 飯縄曲輪 飯縄曲輪の南側には独立した曲輪があり、烽火台があったようです。 烽火台跡 さらには「宝ヶ池」と呼ばれる井戸もあり、ここで水の手を確保していたようでした。 宝ヶ池 現在も水が湧いていました。 城山山頂部に東西に延びる尾根上には、ピークの上にそれぞれ曲輪が築かれていたようで、曲輪と曲輪の間には堀切の跡が残っていました。 飯縄曲輪と太鼓曲輪の間の堀切 太鼓曲輪跡 太鼓曲輪と本城曲輪の間の堀切 山頂付近の縄張り図 尾根周辺に曲輪を張り巡らせてあり、何とも念の入ったことですが、仮想敵が武田信玄とあれば、これくらいは必要なのでしょうか。 本城曲輪の土塁 本城曲輪から続く斜面にも、腰曲輪の跡が連なっていました。 腰曲輪跡 本城曲輪跡 土塁や虎口の跡が残っていました 本城曲輪から見た津久井湖 本城曲輪に建つ古城碑 戦国時代の津久井城主内藤氏の家臣であった島崎氏の末裔で、根小屋の名主であった島崎律直によって、1816年に建てられたものです。 題字は白河少将朝臣、松平定信によるもので、津久井城の築城から時代背景や歴史について書かれています。 戦国時代の関東についても書かれており、「甲越の鷲悍を以ってすと雖も、猶加うること有る能わず。其の強域の大なるに至りては、ただ毛利氏と北条氏と有るのみ」とありました。 すなわち武田信玄や上杉謙信をもってしても北条氏と津久井城は滅びることなく、当時の最大勢力を誇ったのが毛利氏と北条氏だったと書かれています。 本城曲輪は有事の詰め城のような存在だったと思われ、平時は南側の根小屋が拠点だったと思われます。 南側に下りていくと、緩やかな斜面に広い曲輪が配されており、その曲輪の跡が残っていました。 これも曲輪の跡だと思います。 南側の根小屋で最大の曲輪が「御屋敷跡」と名付けられた曲輪です。 現在は埋め立てられていますが、発掘調査では堀跡や中国製の陶磁器などが出土したそうです。 この辺りは八王子城にも似た雰囲気があり、八王子城の影響を受けていたのかも知れません。 根小屋方面に下りてくると急に賑やかになってきて、同じ城山にありながらがらりと雰囲気が変わってきました。 結局搦め手から入って大手から出るという、全く反対の動きをしてしまいました。 おそらくここが大手口です。 やれやれと思いきや、スタート地点の駐車場までどうやって戻るかという問題が発生しました。 城山の山頂を越えて戻るのもしんどいので、城山の周りをめぐって戻ることにしました。 津久井城城山の遠景 結局倍以上の距離を歩いて戻るはめになりました。 津久井城を訪れたのは約2ヶ月前の話で、城跡とは言いながらも久々に山を歩いた感じです。 標高差も距離もさほどではない城山でペースを乱していたのはさておき、「やっぱり山はいいな~」ということで、その2週間後には丹沢へ出かけていった次第です。

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