2014/06/09(月)21:35
意富比神社(船橋大神宮)(千葉・船橋市)
旧船橋宿の宿場町の先、小高い丘陵の上にあるのが船橋大神宮です。
大神宮の名前からして、ずっと長い参道を想像していたのですが、意外なことに階段を上がるとすぐに社殿がありました。
拝殿ではなく神輿庫のようで、中に神輿が保管されていました。
実は参道は街道筋と反対側にあり、京成本線の「大神宮下」駅のある南側が正面になるようでした。
船橋大神宮のように古代からある神社の参道は「『気』が強い」とは言います。
船橋大神宮の正式名称は「意富比(おおい)神社」で、その名前の由来には諸説があります。
中でも最有力とされる説が古代の太陽神説で、「意富比」=「大日」とする説だそうです。
平安中期の「日本三代実録」では、貞観5年(863)年の記事ですでに「下総国意富比神」の記載があり、また「延喜式」にも「意富比神社」の名前が登場することから、古くからの由緒を持つ神社だとわかります。
拝殿
中世以降は「船橋神明」と呼ぶのが一般的だったようで、「神明社」の名前からも伊勢神宮から分祀されたことがうかがえます。
平安末期の船橋には伊勢神宮の荘園である「夏見御厨」があったことと、天照大神が同じ太陽神の最高位にあることに関係があるようです。
中世以降、船橋大神宮の修造には平将門、源頼義・義家の父子や源義朝などと、キラ星のような名前が続いています。
小田原の役の後で関東に入封した徳川家康も、社領を寄進して本殿や末社を造営していました。
現在も行われる素人相撲「船橋のけんか相撲」は、船橋大神宮での徳川家康の相撲観戦が起源となっています。
奉納相撲の土俵
船橋中央図書館にあるステンレス画
旧佐倉街道沿いにある船橋中央図書館、立ち寄った理由は他でもなく、船橋西図書館の収蔵品が中央図書館に移されたと聞いたからでした。
お目当ては「北條九代記鴻之台合戦」だったのですが、学芸員の人に聞いても要領を得ず、挙句には郷土資料の書棚を案内される始末だったので、あきらめて出てきた経緯があります。
「江戸名所図会」に描かれた船橋大神宮の境内も貴重な絵図で、幕末の「市川・船橋戦争」では、船橋大神宮を本営とする旧幕府軍に対し、新政府軍が砲撃を加えたため、社殿は焼失してしまいました。
船橋大神宮の境内には、夜間に船橋の沿岸を航行する船舶のため、常夜の鐘が置かれていたようです。
その常夜の鐘も戊辰戦争で焼失していまい、明治に入った1880年に「灯明台」が建てられました。
灯明台
工事中で近寄れませんでした。
解説板にあった灯明台の写真
船橋大神宮から現在の海岸線「ららぽーとTOKYO-BAY」までは1km足らず、当時の海岸線があったと思われる船橋市湊町までは約500mほどです。
この小さな灯明台も、船橋沖を行く船舶にとっては大きなランドマークだったことでしょう。