パクス・ジャポニカ Vol.2

2017/06/26(月)21:51

二本松城(岩代国)~その1

城跡と史跡(青森・秋田・山形・宮城・福島編)(41)

福島市と郡山市の中間点あたりにあって、安達太良山を西に望む福島県二本松市は、かつて二本松藩が置かれた場所でもあります。 旧二本松藩戒石銘碑(国指定史跡) 1749年に第6代藩主である丹羽高寛が、藩士の戒めとするために藩の儒学者である岩井田昨非に命じて刻ませたものです。 碑に書かれているのは、 「爾の俸 爾の禄は 民の膏 民の脂なり 下民は虐げ易きも 上天は欺き難し」 (「武士の給料は人々の汗と脂の結晶である。民は虐げ易いけれども、神に背くことはできない。よって民を虐げると、天罰が下る」との解釈です) これほどの名訓戒を残す藩でありながら、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わり、なぜに大義のない戦いをしなければならなかったのか、と改めて思います。 二本松藩の藩庁があった二本松城は、別名「霞ヶ城」とも呼ばれています。 三の丸大手口の城跡碑 二本松城は標高345mの白旗が峰に築かれた平山城で、案内地図を見ると白旗が峰の山全体が城郭になったような堅固な縄張でした。 山頂部分に本丸があります。 三の丸の大手口には、大手門である箕輪門が復元されています。 戊辰戦争の二本松の攻城戦で焼失し、昭和57年に復元されたものです。 渡櫓 渡櫓(城内から見たところ) 三の丸には櫓門から続く土塀も復元されていました。 箕輪門の先にはさらに虎口の跡があり、三の丸へと続いています。 三の丸は上段と下段に分かれており、いずれもグラウンドがすっぽり入ってしまうような広さがありました。 三の丸下段 かつての曲輪の跡が本当に学校の敷地やグラウンドになってしまうケースはよく目にしますが、ここでは削平地がそのまま残っていました。 三の丸には城主丹羽氏の居館が置かれた場所で、加藤喜明の時代の1630年に、上下二段の曲輪に改修されたそうです。 明治時代に入ると、三の丸には二本松製紙株式会社がここで創業されています。 三の丸下段から三の丸上段への虎口跡 三の丸上段 三の丸から本丸へと斜面を登っていくと、幾分戦国城郭の風情が漂ってきました。 「城内路」と呼ばれる通路ですが、どう見ても堀切跡です。 本丸直下には腰曲輪が配されて、高い土塁が築かれていました。 ここまで近世城郭の遺構ばかりだったので、中世の遺構が残っていると、なんだか嬉しくなります。 横矢が掛かった本丸直下の虎口 それでも中世城郭の名残はここまでで、山頂の本丸では再び近世城郭が現れました。

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